18.姉上
「アシュリード様?」
リーゼが声をかけた時、アシュリードとカイルが同時に振り返った。
二人の間には、何かが張り詰めていた。
言葉にできない緊張が、空気を重くしていた。
アシュリードがリーゼを見た。その目に、一瞬だけ焦りが滲む。
そして少年が、リーゼを見た。
「ごめんなさい。話し声が聞こえたから、覗いてみたらアシュリード様がいらっしゃったもので…」
二人のただならぬ空気を感じ取り、声をかけるべきではなかったと悟ったリーゼが、申し訳なさそうに謝った。
「いや、いいんだ」
アシュリードはそう言いながら、ゆっくりとリーゼへ歩み寄った。
その動きは自然に見えるようにしていたが、リーゼには気づかれないように、カイルとの間に立つ位置を取っていた。
まるで、彼女を守る壁になるように。
その動きに呼応するように、それぞれの側近である レイン と ジーク も、わずかに体勢を変えた。
言葉にはしないが、完全に警戒態勢に入っているのが分かった。
リーゼを落ち着かせるように微笑むアシュリードの表情とは裏腹に、その場の空気は肌を刺すほど張り詰めていた。
リーゼはその緊張の理由が分からず、ただ戸惑うしかなかった。
その中で唯一、カイルだけは動けなかった。
リーゼの顔を見た瞬間、頭が真っ白になったのだ。
金色の髪。緑の瞳。
自分と同じ色を持っていた。
この方が、姉上だと直感的に分かった。
そして、彼女の耳には、自分と同じピアスが付けられていた。
なぜアシュリードがリーゼと親しげにしているのかは分からなかった。
だが、彼がリーゼを守るように立っている姿を見て、少なくとも敵ではないと理解した。
リーゼから目が離せなかった。
胸のどこかで、固く結ばれていた何かがほどけていく気がした。
長い間、固く結ばれていた何かが。ゆっくりと、でも確かに。
カイルの頭の中で、本に書いてあった名前が響いた。
『第一王女リーゼ』
「リーゼ姉上…」
誰にも聞こえないほど小さな声で、自然と口から零れた。
そして、一歩前に出た。
足が勝手に動いた。止めようとしたけれど、止まらなかった。
「姉上」
次は、皆に聞こえる声だった。
その声は、自分でも聞いたことのないほど切実で、求めるように響いた。
そして、涙が、溢れた。
リーゼは、その言葉を聞いた瞬間、動けなくなった。
『姉上』
意味がわからなかった。自分に弟はいない。
自分は一人っ子のはずだ。
ヴィンセントとエレナの養女だから——。
でも、私は彼を知っている。
なぜか「大きくなったな」という想いが胸に押し寄せたかと思えば、次の瞬間、霧が晴れるように、忘れていた景色が一気に押し寄せた。
温かい手の感触。
「こっちだよ」という声。
小さな手が自分の手を握っている。
笑い声。花の香り。白い廊下。燭台の光——。
——弟だ。
そう、あの子が、弟のカイルだ。
砲声が、響いた。
ソレアの手が、震えていた。
川の水が、冷たかった。
水の底に、光の粒が見えた。
——そうだ。
私は逃げている途中で川に落ちたんだ。
押し寄せる記憶に頭が混乱し、体から力が抜けていく。
倒れそうになったリーゼを、アシュリードが咄嗟に抱き留めた。
リーゼはゆっくりと目を閉じ、意識が遠のいていくのを感じた。
そして、「アシュ」と呟いた後、完全に意識を手放した。
アシュリードは、リーゼの頬を伝った涙をそっと拭った。
愛おしい人を抱きしめるように、優しく、しかし確かな力で支えた。
カイルはその光景を見つめながら、一歩、また一歩リーゼへ歩み寄った。
意識を失った姉の横に膝をつき、震える手で——姉の手を握った。
「……姉上」
その姿を見て、アシュリードはようやく理解した。
——カイルは、リーゼに危害を加える者ではない。
張り詰めていたものが、静かにほどけていった。




