1-6『心境』
今の俺の心境は、簡潔に言えば『複雑』という二文字が一番しっくりくる状態だった。
「……力を貸してほしい、だって……?」
「ええ。言葉通りの意味です」
一体、俺に何ができるというんだ。
今目の前で起きている異常事態からさえ目を背ける、弱い俺に。
現実と向き合おうとすらしてこなかった俺に。自分の身体すら守れなかった俺に。
「俺にできることなんて、何一つない。今までだって何もやってこなかったんだ。足手まといになるくらいなら、断る」
自分の情けなさは、俺自身が一番よく分かっている。こんな惨めな言葉、口にすらしたくない。
俺はそっとドクターから視線を外し、床に広がる汚物へと目を落とした。
そうだ。俺なんて、この吐瀉物と同じくらい生臭くて、ぐちゃぐちゃな精神の持ち主だ。
薄暗い部屋の隅で膝を抱え、時計の秒針が刻む音だけを延々と聴いていたあの頃のように。中身の入っていない卵の殻に閉じこもり、じっとしているのがお似合いなんだ。
「決して、私たちはあなたに目覚ましい『成果』を求めているわけではありません」
「……最初から期待なんてしてないんだろ。ただ、他の奴らと違って会話が成立するから、そう言ってるだけだろ」
俺の自虐を聞いたドクターは、呆れたように小さくため息をついた。
そして、胸いっぱいに深く息を吸い込み――
「――それ、人間の悪いところ!!!」
先ほどまでの洗練された口調から一変、勢いのあるタメ口が飛んできた。
急すぎるキャラ変に、俺は肩を跳ねさせて驚く。
「人間はいっつも結果ばっかり重視する! そこに至るまでの過程でどれだけ傷ついて努力しても、結果がダメならすぐに自分や他人を責める! ほんと呆れます!」
「え、あ……」
ドクターの唐突な熱弁に、頭が追いつかない。
何より、あまりにも図星すぎた。反論の言葉が出てこない俺に、彼女は間髪入れずに言葉を叩き込んでくる。
「死ぬまでずっと、そうやってナヨナヨ自分を卑下しながら生きていくんですか!?」
「っ……俺の何が分かるっていうんだよ! 初対面のくせに……!」
「分かりますとも! 君の心が空っぽなことも、これまで誰からも温かい手を差し伸べてもらえなかったことも、だから惨めな自分の殻に逃げ込んでいたいことも!」
なぜ、ここまでドンピシャで俺の弱みを見抜いてくるんだ。
投げかけられる言葉の一つひとつが、胸の奥を激しくえぐっていく。だが――それらは決して俺を傷つけるための刃ではなく、これまで生きてきて一度も受け取ったことのない『何か』だった。
「なんで……なんで、そこまで……」
目頭が猛烈に熱くなる。奥からせり上がってくる熱い塊が視界を潤し、今にも溢れ出しそうだった。
「――だって、君は最初から、ずっと寂しそうな目をしているから」
その声を聞き、俺は弾かれたようにドクターへ視線を向けた。
相変わらず部屋の中は暗く、彼女の輪郭はぼやけている。けれど、分かる。マスクを外したその顔に、どれほど深い優しさが広がっているか。
「空っぽな君の心は、私たちが満たします」
彼女のトーンが、再び元の静かで優しい口調へと戻っていた。
「私のそばにいてくれるだけで、構いません。だから……もう一度言います。私たちに、力を貸してください」
手に伝わる、確かな温もり。
一度も経験したことがないはずなのに、なぜか魂の深いところで懐かしさすら覚える感覚。
俺の頬を、目からあふれ出た熱い一筋の雫が静かに伝っていくのが分かった。
「俺は……」
かすれる声で返事を口にしようとした、その時だった。
「クソがっ! この数を相手にすんのは、いくらオレさまでも厳しいっての!!!」
廊下の不協和音を切り裂いて、野太い叫び声が響き渡った。
ドタバタと荒々しい足音が、猛スピードでこの保健室へ近づいてくる。耳に焼き付いている、あの声だ。
俺の予想が正しければ――叫びながら逃げてきているのは間違いなく、あのガスマスクの男だった。




