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1-5『偽物』

――当たり前が、当たり前じゃなくなる。

そんな経験、人生の中でそう何度もあることじゃないはずだ。



昨日まで住んでいた家が、火事で跡形もなく燃え落ちる。

昨日まで笑い合っていた知り合いが、今日この世界から消えていなくなる。

普通に生きていて経験する絶望なんて、精々そこまでだと思っていた。



だが、今は違う。

この世界そのものが、足元から静かに崩壊していく。まるで、世界全体から存在を否定されているような感覚だった。



歪んだ世界の隙間から、濁流のように疑問が湧き上がってくる。



――俺は、いつからこの街にいる?



肌にびっしりと浮かび上がる鳥肌が、俺の恐れを何よりもリアルに物語っていた。

ここに至るまでの経緯が、どうしても思い出せない。記憶の糸をどれほど手繰り寄せても、親父の拳が飛び交っていた、あの忌々しい家庭の記憶でピタリと止まってしまう。



――俺の、今の『人格』はいったい何なんだ?



俺の心は、空っぽだったはずだ。誰も信用せず、誰も助けてくれず、希望なんてどこにもない。いっそ死んで楽になりたい、世界から静かに消え去りたい――ずっと、死んだような目をしていたはずなのに。



――今の俺さえ、作られた偽者なのか……?



ゾクゾクと背筋を這い上がる恐怖すら、本物だと信じていいのか自信が持てない。

俺はその場に激しく膝をついた。



――食堂のおばちゃんも、偽者だったのか……?



あの温かい眼差しも、好物をサービスしてくれた愛情すら、すべてプログラムされた偽り。

思考がそこへ至った瞬間、激しい悪心が喉元までせり上がってきた。



俺は右手の指を、思い切り喉の奥へと突っ込んだ。



「オエッ……!」



大好きだったはずの朝食を、今すぐ体内から吐き出し落としたかった。

床に散らばる吐瀉物を前に、荒い息を吐き出す。

俺は、何一つ信じることができない。



――今の俺は、一体誰なんだ……?



◇



その時だった。



俺の濡れた頬に、そっと華奢な手が触れた。

ほんのりとした温もりが皮膚を伝い、冷え切った心へと染み込んでくる。

視界が急激に薄暗くなっていることに、そこで初めて気づいた。いつの間にか彼女がカーテンを閉めていたらしい。理由は分からなかった。



暗がりの中、耳元で静かに、けれど芯のある声が響く。



「――大丈夫。どんな時でも、君は君ですよ」


「何を、言って……」



かすれる声で、声のした方へ顔を上げた。

暗闇の中、そこにいたのは――ペストマスクを外した彼女の姿だった。



僅かな光の中でもはっきりと分かる、透き通るような白磁の肌。すっと通った綺麗な鼻筋に、柔らかく引き結ばれた唇。陰になって目元までははっきり見えないが、息を呑むほどの美人であることだけは理解できた。



「こんな重要なことを伝えているのに、マスク越しじゃ信じてもらえませんから」


「え……?」


「君はこの世界のすべてに不信感を抱いているはずです。だからこそ、せめて私は、素顔でまっすぐに言葉を紡ぎたかった」



見つめ返してくる真剣な眼差しが、俺の瞳孔を一直線に貫いてくる。



「今までの話は、すべて事実です。……けれど、逃げちゃダメなんです」


「……」


「人間は、絶対にAIなんかに負けちゃダメなんです」



この人は、何を言っているんだ。AIがなんで今出てくる…

突拍子もない言葉のはずなのに、そこには迷いのない強さと優しさが宿っていた。その声を聞いているだけで、激しく乱れていた鼓動が、嘘のように落ち着きを取り戻していく。今まで味わったことのない、不思議な感覚だった。



「――私は『ドクター』と名乗る者です。決して、君を一人になんてさせません」



出会ってから、まだ数分しか経っていないのに。

どうしてそんなことが言える。なぜ、そんな目で俺を見つめられるんだ。



混乱と不信感でいっぱいの俺の手を、ドクターは逃がさないように優しく包み込んだ。



「私たちに、君の力を貸してください」



冷え切っていた空っぽの心に、彼女の手を伝って、温かい何かがゆっくりと流れ込んでくる。


その感情の正体が何なのか、今の俺にはまだ分からなかった。


けれど、それが俺の人生で初めて触れた『本物の温もり』であることだけは、確かだった。

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