1-1『目覚めの朝』
『――学生のみなさま、おはようございます。』
学生寮に響き渡るアナウンスで、俺は目を覚ました。
午前七時に起床、午後十一時に就寝。これがこの寮で定められた規則の一つだ。とはいえ、全員が当たり前のように守っているため、縛られているという感覚すら湧かない。
ベッドからゆっくりと体を起こし、洗面所へ向かう。温水で顔を洗い、いつものように鏡を覗き込んだ瞬間、ふと夢の内容が頭をよぎった。
――鏡の中にいた自分の目。
夢の中の俺は、今の俺と同じ目をしていた。どこか寂しそうで、辛そうで、陰気な目。……とにかく、最悪な一日のスタートだと思った。
両手で頬を「パンッ」と強く叩き、気合を入れて制服の袖に腕を通した。
◇
朝食は寮の食堂でとる。毎朝、生徒一人ひとりの栄養状態に合わせた献立が用意されているおかげで、毎日健康そのものだし、身長もぐんぐん伸びている。食堂のおばちゃんには感謝してもしきれない。
「あら、おはよう。どうしたの? 浮かない顔をして」
今日もおばちゃんからの優しい声が飛んでくる。心配そうにこちらを覗き込む、透き通った赤い瞳。こうやって我が子のように気にかけてくれるのだ。
「気のせいだって。今日も俺はご覧の通り元気だよ」
嘘ではない。悪い夢くらい誰だって見る。適当にあしらっておくのが一番だ。
「ならいいんだけど。おかず、少しおまけしておくね」
そう言って、好物のタコさんウィンナーをサービスしてくれた。今日が最悪な一日だと思ったのは、単なる気のせいだったのかもしれない。
「サンキュー、おばちゃん」
◇
朝食を完食したら、あとは学校へ向かうだけだ。ただし、寮を出る前に必ずやらなければいけない「日課」がある。
寮のマスコット的存在である『たいやき』への挨拶だ。
もちろん食べ物ではなく、可愛い犬である。俺が勝手にそう呼んでいるだけだが。
「おはよう、たいやき」
声をかけると、たいやきは尻尾を振って飛びついてきた。
「ワン、ワン!」
整った茶色の毛並みに、吸い込まれそうな蒼い目。嬉しそうに振られる尻尾。こいつからしか得られない心の栄養が確実にあった。
「じゃ、行ってきまーす」
「ワン!」
この癒しの時間こそが、俺の朝の原動力だ。
◇
寮を出て学校へ向かう途中、普段は見かけない光景が目に入った。
カラス一羽と、猫二匹の喧嘩だ。互いに噛み付いているわけではないが、「ガーガー」「ニャーニャー」と実に騒がしい。縄張り争いか何かだろうか。
その光景を眺めていると、カラスの鋭く青い視線がスッとこちらに向けられた。存在に気づかれた途端、喧嘩劇場はあっけなく幕を下ろし、カラスは空へと羽ばたいていってしまった。
「……なんだったんだ?」
首をかしげ、少し大きめの独り言が漏れる。すると、その声に二匹の猫が反応した。どちらの首にも高価そうなペンダントが揺れている。どこかの裕福な家で飼われているのだろう。
一匹の白猫が、警戒心ゼロでこちらに近づいてきた。甘えた声で鳴きながら、俺の足元に体をすり寄せてくる。カラスを追い払ったお礼のつもりだろうか。
一方で、もう一匹の黒猫はこちらを一度一瞥したものの、興味なさそうに毛づくろいを始めた。実に可愛げのない奴だ。
白猫を撫でながら、ふとある異変に気づく。
「――お前ら、たいやきと同じ目の色をしてるな。流行ってんのか?」
当然返事はなく、黒猫がだるそうにあくびを噛み殺した。
その時、遠くから学校のチャイムが聞こえ、一瞬で血の気が引いた。
「やべっ、遅刻だ! またな、ニャンコども!」
急ぎ足で学校へ駆け出す。背後から「ニャー」と見送るような鳴き声が聞こえた気がした。
◇
――午前八時四十分。
猫とたわむれていたせいで、見事に遅刻した。
普通の学校なら教室で教師にお説教されるところだが、うちの学校は違う。
『説教する時間があるなら知識を詰め込め』という、道徳ゼロの超効率主義だからだ。テストで全員が百点を取れるような超ハイレベルな最新型AIによる授業しか行われないため、テストの時間すら存在しない。テストがないため、他の生徒と比較されることもない。
「――出席番号二十四番。早く席について学習を開始しなさい」
担任の女教師から、無機質に学習用のタブレット端末を渡される。
二十代後半くらいの綺麗な女性だ。こちらを見つめる赤い瞳に俺の姿が映っているのが分かる。遅刻の理由を詰問する素振りはなく、ただ早く学習に入るよう催促する視線だった。
俺は謝罪よりも先にログイン操作を行う。この学校では謝罪の言葉すら『無駄』とみなされるからだ。
他の生徒の視線が気にならないのかって? ここは完全私語厳禁で、生徒同士の関わりが一切ない。互いに干渉しないため、俺にとっては全員BotやNPCのような存在だ。
◇
午前の学習を終えると、昼食の時間になる。
給食ではなく、食堂のおばちゃんが作ってくれた弁当を食べるのだ。この弁当も一人ひとり中身が違うらしい。一口食べるごとに、おばちゃんの愛(あるいは徹底された栄養管理)が伝わってくる。
昼休みは、自分の席で『日報』を作成する時間となっている。
今日何があったか、どう過ごしたか、何か「違和感」はなかったか。プライバシー侵害どころか、監視されているようで酷く不愉快な時間だ。まさに囚人である。
周りの生徒は真面目に画面を叩いているが、俺は毎日同じような定型文を入力して済ませている。たまに白紙で出すこともある。
この刑務作業が終われば、午後の学習だ。食後の血糖値上昇と睡眠不足が重なり、まったく頭に入らない。
だから、妄想に逃げることにした。授業中の妄想は学生の特権だ。
宇宙人と戦う、異世界に転生する、誰かと本当の友達になる、家族に愛される……そんな他愛もない妄想で眠気を散らす。効率を上げるための息抜きだと考えれば、これも立派な学習の一環だろう。
だが、そんな平和ボケした俺の時間は、唐突に終わりを告げた。
『――ピンポンパンポーン』
校内に甲高い放送が響きわたる。こんな放送、これまで一度も聞いたことがない。
小さな好奇心と、かすかな緊張感に固唾をのむ。日常がきしみ、崩壊していくような予感がした。
冷や汗が頬を伝うのと同時に、俺の耳に信じがたいアナウンスが飛び込んできた。
『――校内に、不審者が侵入しました』




