プロローグ『悪夢』
――ああ、殺されるかもしれない。
右頬にじわじわと広がる熱い痛み。横の鏡に映る、顔を赤く腫れあがらせた自分と目が合う。
だが、見つめ返す時間すら与えられなかった。追撃の蹴りが腹部を穿つ。みぞおちに直撃したのか、うまく息が吸えない。口からこぼれそうになる何かを必死に抑え、床に這いつくばる俺に、容赦なく靴底が落ちてくる。
「誰が床汚していいって許可したんだ!?」
生まれてから幾度となく浴びせられた言葉。一般的な家庭なら、もっと『愛』のある言葉をかけてもらえるのだろうか。『愛している』なんて言葉は、一度だって言われたことがない。
俺が生まれた年、父は失業した。文系職に就いていた父は、急速に発展した『人工知能』――AIに仕事を奪われたのだ。再就職できない日々が長く続いたことが、この家庭を壊していった。
暴力でストレスを発散する父の横で、母はこちらに目もくれずスマホを眺めている。
母が夢中になっているのは、出来損ないの息子ではなく、画面の向こうにいる優秀な最新型AIだ。手がかからず、問いかければ求めた通りの『答え』をくれるAIが、血のつながった息子よりも可愛く愛おしいのだろう。だが、AIに依存しているのは母だけではない。日々進化を重ねるAIに、社会そのものが魅了されていた。
もし、10年前――いや、AIが存在しなかった時代なら、母はこちらを振り返ってくれたのだろうか。父はもっと優しい言葉を投げてくれたのだろうか。
◇
父の暴行が終わると同時に、俺は家を飛び出した。
普段なら部屋の隅で膝を抱え、身体の傷をなぞっているはずだった。だが、もう限界だったのだと思う。本能が『死』を察知したのかもしれない。心の中で何かがパキりと砕ける感覚があった。傷口を痛ませながらでも、走っているほうがまだ息ができた。どこでもいい、遠くへ逃げたかった。
けれど、外の世界も家の中と大差はなかった。
傷だらけの少年が走っていても、歩行者の目線は手に持った端末に釘付けだ。耳にはイヤホン、視線は画面。電車に乗る大人たちも同じだった。
動画、音楽、日常の選択、社会問題、果ては進路や生き方までもAIがレコメンド(最適化)する時代。アナログな児童虐待など、誰の視界にも入らない。
気がつくと、大きなスクランブル交差点に立っていた。
見上げた街頭モニターに流れるCMも広告も、すべてAIが生成したものだ。
――もう、うんざりだ。
歩きスマホの大人たちにぶつかられ、体勢を崩してアスファルトに転がる。俺を踏みつけていく靴。信号が変わっても、立ち上がることができなかった。
視界の端で、スマホを見ながら運転する車が一直線に迫ってくるのが見えた。
逃げるのをやめ、俺は正面のモニターを見つめた。最後くらい、この世界を狂わせたAIという存在を睨みつけていたかった。
――重い衝撃とともに、俺の意識は悪夢から現実へと引きずり込まれる。




