02.奇跡の末
「エルっ……」
「——ッリアのばか!」
最期の瞬間に私を見た男の内心は分からない。
でも今のリュミエールの瞳は、素直に感情を映し出していた。
怒っている。でもそれ以上に、悲しんでいる。
泣いているの? 私の、所為?
じわじわと湧き上がってくる焦りのまま持ち上げた手が彼に触れるより、勢い良く跳ね上がったリュミエールの両手が私の頬を挟むほうが先だった。
いっ……! バチンッて! 結構大きい音が鳴りましたわよ……!?
咄嗟に痛いと口から溢れかけ、目の前で丸い瞳が歪んでいく様に辛うじて声を呑み込む。
「い、痛かったの? ごめんなさい、わたくしが……」
「そんなのどうでもいい! どうして自分の手の中に魔力をとじこめようとしたんだ? ぼうはつしそうになった魔力にあんなことしたら、手が吹きとんでもおかしくなかったのに……! それに、うでを切るなんて!」
ど、どうしよう? まさかあの自信に溢れたリュミエールを泣かせてしまうなんて!
……いえ、違うわ。ある日突然傲慢に振舞うようになったけど、昔の彼は穏やかですこし泣き虫な、優しい男の子だった。
懐かしい泣き顔に焦りながら王子の柔らかな頬に触れる。反射的に宥めようとするときゅっと唇が引き結ばれ、少し掠れた声音に叫ばれた。
えっ。だって、貴方を傷付けるくらいなら腕ごと遠くに自分の魔力を放り投げる方がずっとマシでしてよ。
「ど、どうしてって……あのままだと、リュミエールさまも怪我をしてしまうところでした。……リュミエールさまこそ、どうして魔力の発生げんをかかえようとなさったの? なんて危ないことを!」
私の方が怒ってるのよ! 危ない事をしたのはリュミエールの方なのに!
半端な位置で浮いていた手も彼の頬に添え、両手で頬を包み込む。声音を低くして怒ってますとアピールすると、先に私の頬を包んでいた細い腕が力を増した。
「私はちゃんと魔力で体をおおっていたよ。けがなんてしない。……私が今けがを負ったら、きみがおこられてしまう」
……魔力で?
言われて冷静にリュミエールを見つめ直してみれば、確かに一瞬彼の全身からゆらりと黄金の膜のようなものが揺らめいて見えた。
魔力は基本的に魔法を使う為の燃料だけど、魔力そのものを純粋なエネルギーとして使う事も出来る。
全身に纏えば鎧代わりに身を守り、拳に纏えば手甲代わりに攻防どちらにも活用し得る。
王族の魔力は特別製だ。確かに、三歳の私が魔力を多少暴発させた程度では怪我する事は無かったかもしれない。
でも、そういう問題じゃないの。『かもしれない』に頼って慢心して、万が一怪我させてしまったら悔やんでも悔やみきれないもの。
反論しようとして、王子の指先が微かに肌へ食い込んでくる感触に言葉が詰まった。
「……わかってる。大丈夫だって言われても、王子がけがするかもしれないのに放っておくわけにはいかないんだって。わかってるけど……でも、すきな女の子が私の代わりにけがするなんて、いやだ」
澄んだ青空色の瞳が雨を湛えて私を見つめ、祈るように眼差しが伏せられる。
互いの肌から滴る雫を見つめながら、胸の奥で大きく鼓動が跳ねた。
すきな、おんなのこ。——リュミエールが。私を、好きだと。
確かに昔はお互い好意を隠さなかった。当然だ。通じ合っていた幸福な過去があったからこそ、取り戻せる事をずっと信じていた。
でも、ああ——何年ぶりかしら。二十年? いいえ、もっと。
随分と久しぶりに婚約者の声音で好きを告げられて、気付けばリュミエール以上に大粒の涙が零れていた。
「……リア? ご、ごめん。言い方きつかった? 泣かせるつもりは……!」
「——エル」
私の涙を見た途端、幼いリュミエールが己の悲しみも怒りも放り出して顔を覗き込んで来る。
濡れた青空色の中に、幼い自分の姿が映り込んでいた。
当時はまだ肩より長い程度だった、癖のない真紅の髪。きりりと吊り上がった琥珀色の瞳。幼くとも既に気の強さが感じられる、キツめの顔立ち。
確かに三歳——かは流石に分からないけど、幼少期の私がリュミエールの目の前に立っている。そう言えばさっきから、少し舌が回らなくて言葉が拙くなる瞬間もある。私って本当に、今三歳?
夢かしら。なんて恐ろしい夢だったの。こんなにも愛している、愛してくれている婚約者に嫌われた挙げ句……国が滅び、エルを死なせてしまう悪夢なんて。
それとも、こうしてリュミエールと話せている今が夢?
——どっちでもいいわ。
頭の中で呟き、彼の頬から離した両手で自分と殆ど変わらない体を抱き締める。
「っぐ、グロリア?」
「ごめんなさい」
胸奥から溢れ出してくる謝意と情愛を声音に乗せると、私の頬から離れて空中で慌てていた腕が止まった。
お互い濡れそぶっている全身を押し付ける。一拍置いて、リュミエールからもそっと両腕が背に回ってきた。
「危ないことをして、悲しませちゃってごめんなさい。もうしないから……泣かないで」
「……うん」
記憶していた成長後のリュミエールなら泣いてないと否定してきた筈だけど、小さな婚約者は素直に頷いてこつんと額を合わせてきた。
お互い水で濡れた額が冷たい。でも、ずっとまた触れたいと願っていた肌の感触に眦も体も熱くなってくる。
今にもまた泣き出しそうな私に少し躊躇ってから、小さな唇が目尻へ押し付けられた。
「何があっても、私が守るから。もう危ないことをしてはいけないよ、グロリア」
「……ひゃ、ひゃい……」
まだ自分も涙を滲ませているのに、こちらを労わろうと普段の穏やかさを装う婚約者の言葉にこくこくと頷いてみせる。
真っ赤な顔で縺れた声を出してしまっても優しく笑ってくれた想い人の笑みに、胸の奥で巣食っていた絶望が解けていくのを感じた。
婚約者に嫌われてしまった約三十年分の記憶が夢でも、今こうして笑い合っている時間の方が夢でも、やっぱりどちらでもいい。
今度は同じ轍は踏まない。絶対に、このままリュミエールとふたりで幸せになる。勿論魔王にだってならせない。
決意を以て微笑み返せば、俄に周囲の喧騒が戻って駆け寄ってきた侍女達の手で一纏めにタオルへ包まれた。
今更ながら、公爵令嬢らしからぬ幼い口調が何度か漏れてしまったことに恥ずかしくなってくる。確かこの頃には、もう淑女らしい口調に切り替えようとしていたはずなのに。
タオルへ顔を埋めようとすると同じような表情のリュミエールと視線が合って、お互い気恥ずかしい笑みがこぼれた。
そうして、十八の夏。
去年追い出された学園が卒業式を迎えている最中であろう日、私が滞在していた地が魔物の大規模暴走に襲われて。
リュミエールや聖女、幼馴染達が在籍する学園がここ以上の規模のスタンピードに呑み込まれているから此方に救助は間に合わないと叫ぶ誰かの怒号を耳にしながら、ひとりで死んだ。




