柏木亮太の最期
柏木亮太の遺体は火葬されていた。組織標本も残っていない。
冴は法医学教室のデータベースを何度も確認した。柏木の事件は冴が担当ではなかった。別の法医学者が検屍を行い、転落死として処理している。解剖は行われていない。つまり組織標本が存在しない。
デスクの前で、冴は両手を組んで考えた。研究室の窓から差し込む冬の日差しが、本棚の背表紙を白く照らしている。記憶を食べる手段がないなら、第二の事件は物的証拠だけで再構成するしかない。だがそれでは足りない。犯人の声を、匂いを、直接的に知る方法が必要だった。
冴は過去の経験を掘り起こした。記憶の残滓は遺体だけに宿るのではない。血液、体液、強い感情の刻まれた物質にも微量の残留記憶が残ることがある。精度は大幅に落ちる。だがゼロではない。
嶋田に電話した。
「柏木の事件で、証拠品として保管されているものはないか」
「待ってろ。確認する」
三十分後、嶋田から折り返しがあった。
「あった。転落地点のコンクリート片。柏木の血液が付着したまま、鑑識の証拠保管庫に入っている。自殺で処理されたから、遺族への返却もされずにそのまま残っていた」
「見せてもらえるか」
「正式な手続きが面倒だが、鑑識の山口にコーヒー一杯の借りがある。明日の夜なら」
翌日の深夜。
警視庁の証拠保管庫は地下三階にある。蛍光灯の光が白く、空調の低い唸りだけが響いている。棚には番号を振られた段ボール箱が天井近くまで積み上げられ、何千もの事件の痕跡が静かに眠っていた。
嶋田が見張りをする中、山口という鑑識担当者が証拠品の箱を開けた。
コンクリートの破片。拳ほどの大きさ。表面に黒褐色の染みが広がっている。三年前の柏木の血だ。乾燥し、変色し、だが確かにそこにある。
冴は手袋を外した。山口が不審な顔をしたが、嶋田が「先生の検査方法だ」と一言で抑えた。
素手でコンクリートに触れた。
冷たく、ざらつく表面。血液の乾いた層の上に、冴の指先が押し当てられる。
――来い。
冴は意識を集中した。残留記憶へのアクセス。遺体から食べるのとは比較にならないほど困難で、断片的にしか得られない。だが血液には、死の瞬間の記憶の残滓が宿ることがある。
◇
暗転。
そして、風。
冴の感覚が柏木の最期に接続した。
断片的だった。映像は途切れ途切れで、時系列が乱れている。だが感覚だけは鮮明だ。
風が強い。高い場所だ。足元のコンクリートが硬い。夜。東京の夜景がフェンスの向こうに広がっている。
そして匂い。
甘い。ジャスミン。バニラ。ムスク。
冴の全身に鳥肌が立った。同じだ。美咲の記憶と同じ匂いが、柏木の最後の瞬間にも充満している。
柏木の前に誰かが立っている。フードを被った人物。顔は霧がかかったように不鮮明だ。これは記憶の劣化だけではない。柏木自身が相手の顔を認識できていなかった。恐怖か、あるいは相手の存在そのものが認知の境界を揺さぶっていたのか。
柏木の心拍が速い。両手が震えている。足がフェンスに近い。一歩、また一歩と後ずさっている。
相手は押していない。手も出していない。ただ静かに立って、柏木に向かって何かを囁いている。
柏木が後ずさるのは、その言葉から逃れようとしているからだ。
声が聞こえた。女性の声。低く、柔らかく、残酷なほど穏やかな声。記憶の劣化で音が歪んでいるが、言葉は聞き取れた。
「君も見えているんだろう? 死者の顔が」
柏木の体が強張った。足がフェンスの縁に触れた。
「――違う。俺は何も見ていない」
柏木の声だった。震え、裏返り、否定の言葉が崩壊寸前だった。
「嘘はいい。私には、わかるから」
フードの人物が一歩近づいた。それだけだった。たったの一歩。
柏木は反射的に後ずさった。
足の下から、コンクリートの縁が消えた。
落下。
風が体を包む。東京の夜景が回転しながら遠ざかっていく。三秒。それが柏木亮太の最後の時間だった。
◇
冴はコンクリート片を握ったまま、証拠保管庫の床に膝をついていた。
嶋田が肩を支えている。
「おい、大丈夫か」
「……ああ」
鼻から血が流れていた。こめかみが割れるように痛い。二度目の記憶の食事。体への負荷が蓄積している。
冴は目を閉じ、今食べた記憶を整理した。
柏木は押されていない。自分から落ちた。相手の言葉に追い詰められ、後ずさった結果としての転落だ。物理的な暴行はなかった。だが精神的な圧力で人を殺せるなら、それは紛れもない殺人だ。
そして香水。同じ甘い匂い。美咲と柏木、二つの事件に同じ人物がいた。
だが冴の頭を占めていたのは、それだけではなかった。
「嶋田さん」
「何だ」
「犯人は柏木に『死者の顔が見えるんだろう』と言った」
嶋田の表情が強張った。
「それは――」
「私と同じだ。死者の記憶に関わる能力を、犯人は知っている。いや、知っているだけじゃない。犯人自身が……」
冴は言葉を切った。推測を口にするのが怖かった。だが記憶の中の声は、冴に向けられた言葉のように響いた。
「君も見えているんだろう?」
「も」。
犯人は、自分自身も見えている、と言ったのだ。
冴と同じ目を持つ人間が、七人を殺した。
証拠保管庫の白い蛍光灯の下で、冴は震える手でコンクリート片を証拠箱に戻した。山口が怪訝な顔で冴の鼻血を見ている。嶋田が「持病だ」と嘘をついてくれた。
外に出ると、深夜の冷気が汗ばんだ肌を刺した。嶋田が缶コーヒーを自販機で買い、冴に押しつけた。温かいアルミの感触が、凍えた指に染みる。
「朽木先生。無理をしている」
「大丈夫だ」
「大丈夫じゃない顔をしている。鼻血を出すたびに、先生の顔色が悪くなっている。いつか取り返しがつかなくなるんじゃないか」
冴は答えなかった。嶋田の心配が正しいことは、自分が一番よくわかっている。記憶を食べるたびに、頭の中の容量が少しずつ埋まっていく。他人の死が、冴の精神を蝕んでいく。
だが止められない。柏木の記憶の中で聞いた言葉が、頭の中で反響し続けている。
「君も見えているんだろう? 死者の顔が」
偶然ではなかった。二つの事件を繋ぐのは、同じ香水と同じ犯人だけではない。犯人は「能力」について知っている。死者の記憶を見ることができる人間の存在を、知っている。
缶コーヒーを一口飲んだ。苦い液体が喉を焼いた。
七つの事件。二つが繋がった。残りは五つ。
冴は嶋田に向き直った。
「この二つの事件は、同一犯だ。香水も犯人の体格も一致する。そしてこの犯人は、私の能力について何かを知っている」
「知っている、だけか。それとも――」
「犯人自身が能力者である可能性がある。柏木への言葉は、共感の言葉だった。『君も見えている』。『も』だ」
嶋田は缶コーヒーを握り潰し、ゴミ箱に投げ入れた。
「もう一人いるってことか」
冴はうなずいた。夜の風が二人の間を吹き抜けた。




