同じ香り、同じ影
二つの事件を結ぶ線は、香水だった。
冴は記憶の中に刻まれた匂いを頼りに、銀座の老舗調香師を訪ねた。薄暗い店内にガラス瓶が整然と並び、空気そのものが芳香の層で構成されている。白髪の調香師は冴の説明を黙って聞き、数本のサンプルを差し出した。
「ティエリー・ミュグレーのエンジェルに近いですが、同じではありません」
冴は一本ずつ確かめた。どれも記憶の中の匂いに似ているが、一致しない。あと一歩。何かが足りない。
「お客さんが探しているのは、既製品ではなさそうですね。ジャスミンとバニラとムスクにアルデヒドを組み合わせたカスタムブレンド。特注品です。調合師が個人の注文で作ったものでしょう」
「特注品の調合師を追跡できるか」
「東京で個人向けにカスタムブレンドを手がける調香師は、私が知る限り十人もいません。リストを作ることは可能です。ただ、顧客情報を教えてくれるかどうかは別の話ですが」
「お願いします」
老調香師はうなずき、カウンターの奥から手帳を取り出した。万年筆で丁寧に名前を書き連ねる。八人分の名前と連絡先。冴はそれを受け取りながら、一つだけ確認した。
「この匂いの組み合わせは、何か意味があるか。ジャスミンとバニラとムスクにアルデヒド、という組み合わせに」
老調香師は眼鏡の位置を直し、冴を見つめた。
「ジャスミンは記憶を呼び覚ますと言われます。バニラは安心感。ムスクは執着。そしてアルデヒドは……冷たさです。温かさと冷たさが同居する香り。作った人間は、矛盾を纏いたかったのでしょうね」
矛盾を纏う。殺人を犯しながら、被害者の葬儀に通う人間。そんな犯人像が冴の頭をよぎったが、まだ形にはならなかった。
冴はリストをコートのポケットにしまい、店を出た。銀座の冬の風が、店内の甘い残り香を吹き散らす。
一方、嶋田は別の角度から動いていた。
嶋田の古い刑事仲間――退職した元捜査二課の伊藤という男から、柏木亮太に関する情報が入ったのだ。冴が研究室に戻ると、嶋田からのメッセージが届いていた。
「柏木の元同僚に当たった。柏木は死の数週間前から、社外の人間と頻繁にメールをやり取りしていたらしい。内容は不明だが、同僚が『何かの組織について調べている』と言っていたとの証言がある」
冴は美咲の手帳の記号を思い出した。あの図形。美咲も何かを調べていた。柏木も何かを調べていた。二人の「何か」は同じものではないか。
嶋田との電話で、冴はこの仮説を伝えた。
「美咲は東栄製薬のインターンだった。柏木はIT企業のプログラマーだ。まったく違う業界の二人が、同じ組織を調べていた可能性がある」
「となると、その組織を調べた人間が次々に消されている、ということか」
「まだ推測だ。だが二人の接点が他に見つからない以上、これが最も蓋然性の高い線だ」
「わかった。柏木の同僚にもう一度当たる。メールの相手が誰だったか、できれば特定したい」
電話を切った後、冴は研究室の窓から外を見た。大学のキャンパスは夕暮れに沈み始めている。イチョウの枯れ葉が風に舞い、冬の灰色の空に溶けていく。この静かな風景の裏で、何人もの人間が殺されている。
安西から別の報告が入った。柏木のPCの復元作業の中間報告だ。
「削除されたブラウザの検索履歴を部分的に復元できました。キーワードは以下の通りです」
安西が送ってきたリストを、冴は息を止めて読んだ。
「鏡花」
「残留記憶」
「被験者リスト」
「東栄製薬 臨床試験」
「脳の可塑性 幼児期」
冴の手が震えた。
五つのキーワードを紙に書き出し、デスクの上に広げた。
「鏡花」――不明。だがこの言葉が冴の資料室で見つけた追記メモの「香水、ティエリー・M?」と並ぶ意味を持っているなら。
「残留記憶」――死者に残る記憶のこと。冴の能力の核心。
「被験者リスト」――実験の参加者。
「東栄製薬 臨床試験」――美咲がインターンをしていた会社。
「脳の可塑性 幼児期」――子供の脳が変化しやすい時期。
これらを一つの文脈に配置すると、ある仮説が立ち上がる。
東栄製薬が関与する何らかの臨床試験。幼児期の脳の可塑性を利用した、残留記憶に関する実験。その被験者が存在する。そして「鏡花」は、そのプロジェクトの名前か符号。
柏木はプログラマーだ。データベースの管理を仕事にしていた。どこかの組織のデータベースにアクセスし、このプロジェクトの痕跡を見つけたのではないか。
そしてそれを調べたことで、殺された。
「鏡花」。初めて目にする言葉だが、その響きが冴の奥の何かに触れた。理屈ではない。もっと深い、体の記憶に近い反応だった。
「残留記憶」。それは冴の能力そのものを指す言葉だ。
「被験者リスト」。誰かの。何の実験の。
冴はデスクに両手をつき、深く息を吸った。点と点が線になり始めている。美咲の手帳の記号。柏木の検索履歴。同じ香水。同じ犯人。
美咲は東栄製薬でインターンをしていた。柏木は「ある組織」を調べていた。二人とも、「鏡花」に関わる何かに触れ、そして殺された。
冴は椅子に深く座り直した。七枚の写真をデスクに広げる。七人の被害者。この全員が「鏡花」に繋がっているとすれば、七つの事件は連続殺人だ。しかも動機は個人的な怨恨ではない。口封じだ。
「鏡花」とは何だ。
「残留記憶」の実験とは何だ。
そして「被験者」とは誰だ。
冴の指先が、無意識に自分のこめかみに触れた。幼少期から持っている能力。なぜ自分にだけ、死者の記憶が見えるのか。その問いに、冴はこれまで答えを持っていなかった。
だが今、別の可能性が浮上している。
この能力が、天賦のものではなく、何者かによって「作られた」ものだとしたら。
冴は椅子から立ち上がり、窓際に歩いた。ガラスに自分の顔が薄く映っている。青白い顔。窪んだ目。食べた記憶の重みが、肉体にまで影響を及ぼし始めている。
「被験者」。
その言葉が脳裏で回り続ける。
冴が初めて記憶を食べたのは、二十二歳のとき。御堂教授の研究室で。だが能力そのものは、もっと前から存在していたのではないか。幼い頃から、夢の中で他人の記憶のような映像を見ることがあった。母親はそれを「想像力が豊か」だと笑って流していた。
もしそれが想像力ではなかったとしたら。もし幼い頃に何かの実験を受けていて、その結果として能力が発現したのだとしたら。
冴は自分の両手を見つめた。何百もの遺体に触れてきた手。死者の記憶を食べてきた手。この手の「機能」が、天然のものではなく人為的に付与されたものだとしたら、冴という人間のアイデンティティが根底から揺らぐ。
その恐怖を飲み込み、冴はスマートフォンを握った。安西に返信を打つ。
「柏木のPCの暗号化ファイルの復号を最優先で。被験者リストの中身が必要だ」
送信ボタンを押す指が、まだ震えていた。
研究室のデスクの上で、七枚の写真が冴を見つめている。七人の死者。その全員が「鏡花」に触れ、消された。
そして冴自身も、今、鏡花に触れ始めている。




