デジタルの残滓
安西真帆の仕事は速かった。
冴が警視庁本庁舎の資料室に入ったとき、安西は三台のモニターに囲まれ、キーボードを叩き続けていた。デスクの上にはコンビニのおにぎりの空き袋と缶コーヒーの空き缶が散乱している。昨夜から通しで作業をしていたらしい。
「朽木先生。結果をお見せします」
安西の声に、初対面のときの棘がなかった。三日間の作業で何かが変わったのだ。冴はパイプ椅子を引き寄せて座った。嶋田が後から入り、ドアを閉めた。
「まず被験者名簿。柏木のPCに暗号化されて保存されていた文書を部分的に復号しました」
安西がモニターに文書を表示した。フォーマットは崩れているが、表組みのデータであることはわかる。行ごとに番号と伏字。ほとんどの情報が黒く塗りつぶされているが、いくつかの項目が読み取れる。
「被験者A、B、C……全部でGまでのアルファベットが振られています。年齢は記載時点で五歳から七歳。性別は男女混合。実施期間は約二十五年前。実施機関の欄は完全に伏字ですが、参照番号の体系から政府系の研究機関、おそらく内閣府の外郭団体です」
「二十五年前の、子供を対象とした実験……」
嶋田の声が低くなった。
「被験者の名前は特定できるか」
「ほぼ不可能です。ただし――」
安西が画面をスクロールした。表の一箇所を指差す。
「被験者Dの欄。姓の最初の一文字だけ伏字が不完全で、辛うじて読める字があります」
モニターの上で、伏字の隙間から一文字が覗いていた。
「朽」。
冴の視界が一瞬白くなった。椅子の肘掛けを握る指が白くなる。
二十五年前。冴は七歳だった。
幼い頃の記憶は曖昧だ。五歳から七歳にかけての記憶に、妙に空白が多いことには以前から気づいていた。断片的な映像。白い部屋。誰かに手を握られている感覚。母親が「特別な検査」と言っていた通院。あれは通常の小児科ではなかったのか。
だが冴は、その可能性を飲み込んだ。今この場で動揺を見せるわけにはいかない。
「これだけでは断定できません。朽木という名字は珍しいですが、日本に数百世帯はあります。ただ、朽木先生が第一・第二の事件の被害者の記憶を――」
安西は言葉を切った。冴の顔色を見たからだ。冴は表情を変えていないつもりだったが、血の気が引いているのは自分でもわかった。
「続けてくれ」
「……はい。次に防犯カメラの映像です」
安西が別のモニターに切り替えた。第二の事件の現場――港区のビル周辺を撮影した防犯カメラの映像が、複数のアングルで表示される。
「フードの人物を三台のカメラで捉えました。エレベーターホールの映像に加え、ビルの裏口付近と、五十メートル離れた交差点のカメラです。時刻は全て事件当日の午後九時半から十時の間」
三つの映像を並べて見ると、同一人物であることは明らかだった。黒いロングコート。フード。長身で細身の体格。そして安西が言った。
「歩行パターンを解析ソフトに通しました。歩幅、腕の振り方、重心の移動。結果として推定身長は百六十八から百七十二センチ。体重は推定五十キロ前後。そして骨盤の角度から推定される性別は――」
安西がモニターを指差した。
「女性です」
嶋田が腕を組んだ。冴は黙ったまま映像を見つめている。
「第一の事件の目撃証言と一致する。長身の女性。黒いコート。歩き方が女性的だった、と」
「はい。さらにもう一つ」
安西は映像を巻き戻した。ビルの裏口カメラの映像。フードの女性がビルに入っていく際、一瞬だけ裏口のライトに照らされる。フードの下から覗く顎のラインと、首元。
「拡大します」
画像が粗くなるが、首元に何かが光っているのが見えた。細い鎖。ペンダントだ。
冴の心臓が跳ねた。美咲の記憶の中で見た、犯人の首元のペンダントと同じ。
「安西。いい仕事だ」
嶋田が珍しく率直に褒めた。安西は表情を変えなかったが、わずかに背筋が伸びた。
「朽木先生に一つ聞いていいですか」
「何だ」
「先生は、どうやってこの事件が殺人だとわかったんですか。証拠が出る前に、最初から殺人だと確信していた。三年前の交通事故死と、自殺で処理された転落死。どちらも公式には事件性なしです。それを覆す根拠を、先生はどこから得ているんですか」
安西の目が、冴を射貫くように見ている。技術者としての論理が、冴の説明のつかない能力を許容できずにいる。
「法医学者の直感だ。説明できる根拠は、これから揃える」
「直感。……なるほど」
安西は納得していない。だがそれ以上は追及しなかった。モニターに向き直り、次のファイルを開く。
「被験者名簿の復号を続けます。それと、フードの人物の画像をさらに精査して顔の一部でも特定できないか試みます。もう少し時間をください」
三者会議が終わり、廊下に出た。嶋田が冴の隣を歩きながら、低い声で言った。
「安西の疑問は当然だ。いつか説明しなきゃならんときが来る」
「わかっている。だが今はまだ早い」
「先生の判断に任せる。だが、あの子は頭がいい。自分で答えに辿り着く前に、こちらから話した方がいいかもしれんぞ」
冴は答えなかった。安西の鋭い目を思い出しながら、廊下を歩いた。協力者が増えるたびに、秘密の重みも増していく。
フードの女性。身長百七十センチ前後。細身。銀色のペンダント。
その人物が、美咲と柏木を殺し、冴を刺した。
同一の女性。冴はその輪郭を、少しずつ掴み始めていた。
嶋田と別れた後、冴は大学の最寄り駅で電車を降りた。夕暮れのキャンパスを歩きながら、被験者名簿の「朽」の一文字を反芻する。
二十五年前。幼児期。脳の可塑性。残留記憶。
冴の能力は天賦のものだと、ずっと思っていた。御堂教授も「君だけの目だ」と言った。だがそれが嘘だったとしたら。冴の能力が実験の産物だったとしたら。そして被験者がAからGまで七人いたとしたら、他にも「同じ目を持つ者」がいるかもしれない。
柏木の記憶の中で犯人が言った言葉が、再び蘇る。
「君も見えているんだろう? 死者の顔が」
犯人は能力者だ。そして犯人も、被験者の一人かもしれない。
研究室に戻り、冴は七枚の写真をデスクの上に広げた。七人の死者。七人のアルファベット。その一致が偶然であるはずがない。
夕闇が窓の外を塗り潰していく。冴は蛍光灯もつけず、暗くなっていく研究室で写真を見つめ続けた。




