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死者の記憶を食べる検屍官、自分を殺した犯人を追ううちに七つの未解決事件の真相に辿り着く  作者: ぽんぽこライフ


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姉妹の距離

 日曜日の午後、チャイムが鳴った。


 冴はソファで検屍記録の再読み込みをしていた。リビングのテーブルには七枚の写真、ノート、事件の時系列表が広げられている。インターホンの画面を見ると、凛が紙袋を両手に抱えて立っていた。


「お姉ちゃん、開けてー。手が塞がってる」


 冴は慌ててテーブルの上を片付け始めた。写真をノートの下に滑り込ませ、時系列表を引き出しに押し込む。だが七枚全部を隠し終える前に、凛がドアの前で「鍵開いてるよね」と言いながらノブを回した。


 冴は凛に合鍵を渡していた。万が一のとき、猫の世話を頼むために。今、その判断を後悔している。


「お邪魔しまーす。ご飯持ってきたよ。肉じゃがとサラダとおにぎり。あ、夜ちゃん」


 凛が紙袋をキッチンに運ぶ間に、冴は残りの写真を片付けた。だが一枚――三枚目の園部真司の写真が、ソファのクッションの隙間に落ちていることに気づかなかった。


 凛がリビングに戻ってきた。ソファに座り、膝の上に夜を乗せる。猫は凛に懐いていて、喉を鳴らしながら丸くなった。


「お姉ちゃん、顔色悪いよ。ちゃんと寝てる?」


「寝ている」


「嘘。目の下の隈、入院前よりひどくなってる」


 凛はぴしゃりと言った。冴は目を逸らした。


 凛が持ってきた肉じゃがを温め、二人でテーブルに向かい合った。冴は自分が最後にまともな食事を取ったのがいつだったか思い出せなかった。コンビニのおにぎりとカップ麺で生き延びていたここ数週間。凛の作った肉じゃがは温かく、じゃがいもが口の中で崩れるたびに、普通の人間の生活の輪郭が蘇る。


 凛は冴の三倍の速さで食べながら、編集者の仕事の愚痴を話した。締め切りに追われる作家のゲラが三度も戻ってきたこと。印刷所のトラブルで増刷が遅れていること。後輩が取材先でやらかしたこと。凛の世界は生きた人間で溢れている。冴はそれを聞きながら、自分の日常がどれだけこの妹の世界から離れてしまっているかを感じていた。


 冴の世界は死者で溢れている。解剖台の上の沈黙した体。食べた記憶の中で叫ぶ声。七枚の写真の向こうに並ぶ、語られなかった物語。


「お姉ちゃん、聞いてる?」


「聞いている。ゲラが三回戻ってきた話だろう」


「うん。……お姉ちゃんって、こういうとき返事だけは正確なんだよね。頭の中は全然別のこと考えてるのに」


 凛が箸で冴を指した。冴は否定できなかった。


「ねえ、お姉ちゃん」


 凛が箸を止めた。


「何かあるんでしょ」


「何もない」


「あるよ。私が来たとき、テーブルの上に何か広げてたでしょ。急いで片付けてた」


 冴は答えに詰まった。凛の観察力を甘く見ていた。


「仕事の資料だ。見せられるものじゃない」


「検屍の資料?」


「そうだ」


 凛はしばらく冴を見つめ、それ以上追及しなかった。だが食器を片付けるとき、ソファに座り直した凛の手がクッションの隙間に触れた。


「何これ」


 写真が指先に引っかかった。凛がそれを取り出す前に冴が手を伸ばしたが、一瞬遅かった。凛の目が写真の表面を捉えた。男性の顔写真。見知らぬ人物。


「お姉ちゃん、この人……」


「返してくれ」


 冴の声が硬かった。凛は一瞬驚いた顔をしてから、写真を冴に渡した。


「ごめん。見ちゃった」


「いや……こちらこそ。仕事の資料を出しっぱなしにしていた私が悪い」


 凛はうなずいたが、目が冴を離さなかった。姉が何かを隠している。それを凛は確信している。だが問い詰めてもこの姉は答えない。凛はそれを知っている。


「お姉ちゃん。危ないことしてないよね」


「していない」


「本当に?」


「本当だ」


 凛はコートを着て、玄関に向かった。ブーツを履きながら、振り返った。


「私、鈍い方じゃないよ。お姉ちゃんが刺されて、退院してすぐに仕事に戻って、知らない人の写真を持ってて、顔色が日に日に悪くなってる。それを全部『大丈夫』で片付けられると思ってる?」


 冴は黙った。凛の目が赤くなりかけていた。


「何も言えないなら、せめて嘘はつかないで」


 ドアが閉まった。冴は玄関に立ったまま、しばらく動けなかった。凛の足音が階段を下りていく。遠ざかっていく。


 冴は写真を手に取り、園部真司の顔を見つめた。凛がこの写真を見た。たった一瞬。だがそれで十分だ。凛の世界に、事件の影が触れた。


 冴の調査は、自分だけの問題ではなくなりつつある。嶋田は刑事だ。リスクを承知で協力している。安西も同じだ。だが凛は違う。凛は一般人だ。出版社の編集者で、最も危険に晒してはならない人間だ。


 リビングを見回した。テーブルの上には肉じゃがの残りが入ったタッパーが置かれている。凛が「明日の朝食べてね」と言い残していったものだ。その横に、七枚の写真。温かい日常と冷たい死が、同じテーブルの上で並んでいる。


 冴は写真を封筒にしまい、本棚の奥に押し込んだ。凛が再び来ても目に触れない場所に。


 だが写真を隠せても、冴の顔色を隠すことはできない。次に凛が来たとき、この姉はもっとやつれている。そのことを、冴は確信している。


 その夜、ベッドに入っても眠れなかった。目を閉じると、美咲と柏木の記憶が混ざり合って押し寄せてくる。首を絞められる圧迫感と、落下する浮遊感が交互に襲う。冴は布団を握りしめ、歯を食いしばった。


 フラッシュバックが加速する。美咲の記憶。柏木の記憶。そして――知らない記憶。


 白い部屋。


 幼い自分が、誰かの手を握っている。小さな手。自分と同じくらい小さな手。隣にもう一人、子供がいる。白衣を着た大人が二人の前に立っている。


 その白衣に、名前が刺繍されていた。


 冴は目を見開いた。暗い天井が視界に広がっている。心臓が激しく打っている。


 白衣の名前。


 「御堂」。


 それは冴の恩師の名前だった。フラッシュバックの中の白い部屋。幼い自分。隣の子供。そして御堂の白衣。


 冴は暗闇の中で、自分の手を見つめた。


 これは食べた記憶ではない。冴自身の記憶だ。封じ込めていた幼少期の記憶が、蓄積したフラッシュバックに引きずり出されて浮上してきた。


 隣にいた子供の顔は見えなかった。だが小さな手の温もりだけは、驚くほど鮮明に残っている。もう一人の子供が、冴の手を握りしめていた。怖かったのだろう。冴も怖かった。


 白衣の「御堂」。


 御堂教授は、冴の能力を最初に受け入れた人間だ。「君だけの目だ」と言ったあの日、御堂は本当に初めて冴の能力を知ったのか。あるいは最初から知っていたのか。二十五年前から。


 ベッドの脇で、夜が丸くなって眠っている。猫の寝息だけが静かに響く部屋で、冴は目を開けたまま朝を待った。


 凛を巻き込んではいけない。御堂に問い質さなければならない。


 だがその前に、まだ解くべき事件が残っている。

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