見えない監視者
嶋田が「鏡花」を警察の内部データベースで検索した翌朝、神崎怜司から電話がかかってきた。
冴がそれを知ったのは、嶋田からの緊急連絡だった。研究室で美咲の検屍記録を読み返していた冴のスマートフォンが震え、画面に嶋田の名前が表示された。
「朽木先生。問題が起きた」
嶋田の声はいつもの粗野さが消え、低く抑えられていた。
「昨日の夜、帰りがけにデータベースで『鏡花』を検索した。特命対策室の情報にはアクセスしてない。一般の事件検索システムだ。結果はゼロ件。何もヒットしなかった」
「それで」
「今朝、出勤したら机の上に内線電話のメモがあった。神崎室長から。『少しお話ししたいことがある』と」
冴の指が強張った。
「検索からまだ十二時間も経っていない。鏡花で検索しただけで即座に反応があったということは――」
「監視対象キーワードだ。間違いない。誰かが検索する度にアラートが飛ぶ仕組みになっている」
冴は椅子の背もたれに体を預けた。「鏡花」は警察の内部システムで監視対象に指定されている。それを設定できる権限を持つのは、上位の管理者だ。
「嶋田さん。神崎に何と答えた」
「別件の調査で偶然引っかかった、とごまかした。神崎は穏やかに『そうですか、興味深いですね』と言って、それだけだった。だが声の奥に、探りを入れている気配があった」
「神崎は何を知っているんだ」
「わからん。だが少なくとも『鏡花』という言葉の意味を知っている。そしてそれを検索する人間を監視している」
冴は思い出した。藤原美咲の検屍記録に挟んだ追記メモ。冴自身の筆跡で書かれた「香水、ティエリー・M?」。あのメモを誰かが見ていたとしたら。法医学教室の資料室には、鍵がかかるとはいえ、大学関係者ならアクセスできる。
嶋田が続けた。
「朽木先生。俺たちは気づかないうちに、誰かの網に引っかかったかもしれない。これ以上のデータベース検索は控える。安西にも伝える」
「わかった。嶋田さんも気をつけてくれ」
電話を切った後、冴は研究室のドアを確認した。施錠されている。窓のブラインドを下ろし、モニターの明るさだけが部屋を照らす状態にした。
神崎怜司。特命捜査対策室の室長。冴は直接会ったことはないが、名前は知っている。嶋田が以前、雑談のように漏らしたことがある。「あの人は穏やかに笑って人事を動かす。逆らった奴はいつの間にか地方に飛ばされる」。
未解決事件の再捜査と、「特殊な捜査手法」の運用を担う部署の長。特殊な捜査手法。その言葉が、冴の能力と重なる。冴が嶋田を通じて非公式に協力してきた相手は、末端では嶋田だが、組織図上では神崎の管轄に入る。つまり神崎は、冴の存在を知り得る立場にいた。
もし神崎が鏡花プロジェクトに関与していたとすれば、冴の能力についても知っている可能性がある。そしてそれを「組織の資産」として管理しようとするなら。
冴の背筋に冷たいものが走った。
安西からメッセージが入った。
「被験者名簿の復号を進めました。新しい発見があります。被験者Dの行に、もう一文字読めました」
冴はメッセージを開いた。
「被験者D、朽◯」
二文字目は伏字のまま。だが一文字目が「朽」であることは確定した。冴の指先が冷たくなった。偶然の一致だと言い聞かせるのは、もう無理だった。
御堂に電話をかけることを決めた。
呼び出し音が三回鳴り、御堂が出た。
「冴くん。珍しいね、電話をくれるなんて」
御堂の声は穏やかだった。いつも通りの、温かい声。冴はその温もりに救われてきた。だが今は、その温もりの裏に何があるのかを疑っている。
「御堂先生。一つお聞きしたいことがあります」
「何だい」
「『鏡花』という言葉に、心当たりはありますか」
沈黙。
一秒。二秒。三秒。
電話越しの沈黙は嘘をつけない。御堂は驚いたのか、戸惑ったのか、あるいは答えを選んでいるのか。冴にはその三秒間の意味を正確に読むことができなかった。
「……聞いたことがないね。何かの作品のタイトルかい」
御堂の声は穏やかに戻っていた。だが冴は、最初の三秒間の沈黙を記憶に刻んだ。
「いえ。調査中に出てきた言葉です。気になったので」
「そうか。冴くん、無理はしていないかい。体はまだ本調子ではないだろう」
「大丈夫です。ありがとうございます」
電話を切った。
御堂は嘘をついた。
冴は確信した。「聞いたことがない」は嘘だ。あの三秒間の沈黙は、「知っている」人間の反応だった。知らない言葉なら、「何それ」と即座に聞き返すはずだ。
恩師への疑念が、胸の奥で鈍い痛みに変わった。
スマートフォンが再び鳴った。非通知。
冴は一拍おいて、通話ボタンを押した。
沈黙。
誰も話さない。通話は繋がっているが、向こう側に声はない。呼吸音だけが微かに聞こえる。数秒後、通話が切れた。
冴はスマートフォンを握ったまま、窓に目を向けた。ブラインドの隙間から、向かいのビルが見える。オフィスビルの窓が並ぶ中、ひとつの窓に光が反射した。
一瞬だった。カメラのレンズか、双眼鏡か。向かいのビルの一室で、何かが光った。
冴は反射的にブラインドを完全に閉じた。
心臓が速く打っている。非通知の電話。向かいのビルの光。
監視されている。
冴は暗くなった研究室で、壁に背をつけて座り込んだ。膝を抱え、呼吸を整える。
捜査が「見えない壁」に当たった。神崎は冴の動きを知っている。そして冴は今、物理的にも監視下にある。
自分は追う側であると同時に、追われる側でもある。最初から、そうだったのかもしれない。
しばらくして、冴は立ち上がった。壁にもたれたまま考え込んでいても事態は動かない。
ブラインドの隙間から、もう一度向かいのビルを見た。先ほどの光は消えている。あの窓がどの部屋なのか、確認する必要がある。
だが今夜はもう遅い。研究室の蛍光灯をつけ、デスクに戻った。七枚の写真を広げる。七人の死者。その全員が鏡花に触れたから消された。そして今、冴自身が鏡花に触れている。
次の一手を考えなければならない。神崎の存在が明らかになった以上、表からの捜査は封じられた。だが裏からなら。
冴はスマートフォンを取り、安西にメッセージを送った。
「向かいのビルについて調べてほしいことがある。短期レンタルオフィスの利用者情報。明日、詳しく話す」
送信した後、冴はモニターの明かりを消した。研究室が闇に沈む。
窓の外の街灯だけが、ブラインドの隙間から細い光を落としていた。その光が、冴の足元を冷たく照らしている。




