交差する影
翌朝、冬の朝日が白く低い角度で街を照らしていた。
冴は研究室に向かう前に、向かいのビルに直接足を運んだ。昨夜見た光の位置を確かめるために。コートの襟を立て、吐く息が白い中を歩く。
研究室から見えた窓の位置を記憶し、ビルの入り口を確認する。築二十年ほどのオフィスビル。一階にコンビニと不動産仲介業者が入り、上階は小規模なオフィスが並んでいる。エントランスにオートロックはなく、誰でも出入りできる。
管理会社の表示を見つけ、電話をかけた。冴は「東都大学の教員で、向かいのビルのレンタルオフィスについて問い合わせたい」と切り出した。
「五階の角部屋、短期レンタルの部屋について伺いたいのですが」
「五〇三号室ですね。短期契約のレンタルオフィスです。ただ、昨日付で退去されています」
「退去」
「はい。一ヶ月の短期契約で、前日に退去届が出ました。原状回復も済んでいます。非常に綺麗に使われていたので、こちらも驚いたくらいで」
「借主の情報を教えていただけますか」
「個人情報ですので、警察からの正式な照会でないとお伝えできません。ただ……法人名義でのご契約でした」
冴は法人名を聞き出そうとしたが、管理会社は頑なだった。嶋田に正式照会を頼むしかないが、嶋田は今、神崎の目を気にして動きづらい状態だ。
ビルを離れ、安西に連絡した。安西なら法人登記のデータベースから調べられるかもしれない。
「五〇三号室の法人名義。管理会社が教えてくれなかったが、登記簿から特定できないか」
「やってみます。ただ、ペーパーカンパニーの可能性が高いですね。短期レンタルオフィスを偽名で借りるような相手なら」
安西の予想は正しかった。三時間後に届いた報告では、借主は三ヶ月前に設立された合同会社で、代表者の住所は存在しないビルの番地だった。偽名。偽住所。痕跡を残さないための使い捨ての法人。
だが安西は、それだけでは終わらなかった。
冴は研究室で安西の追加報告を待つ間、窓際に立ってコーヒーを飲んでいた。向かいのビルの五〇三号室は空だ。カーテンが開いたまま、誰もいない部屋がこちらを向いている。冴を監視していた人間は、冴が気づいたことを知って撤退したのか。あるいは別の場所に移動しただけか。
コーヒーが冷めていた。冴はそれでも飲み干し、カップを流しに置いた。腹の傷が引き攣れる。まだ完全には治っていない。体を動かすたびに、刃が入った瞬間の冷たさが甦る。
あの甘い香水の匂いも。
◇
その日の夕方。警視庁の資料室で三者会議が開かれた。
安西が三台のモニターに映像を並べた。
「朽木先生のご依頼とは別に、もう一つ報告があります。転落事件の防犯カメラ映像を時間帯を広げて再調査しました。その結果、事件当日だけでなく、三日前にも同一のフードの女性がビル周辺を歩いていたことがわかりました」
映像が再生される。事件の三日前の午後八時。港区のビルの向かいにある歩道を、フードを被った長身の女性がゆっくりと歩いている。ビルの入り口を一度通り過ぎ、振り返り、また通り過ぎる。下見だ。
「歩行パターンは事件当日のフードの人物と九十八パーセントの一致です。同一人物で間違いありません」
「計画的犯行の証拠だな」
嶋田が腕を組んだ。
「三日前に下見をして、カメラの位置を確認し、死角のルートを特定した上で当日に実行した。素人の犯行ではない」
「そしてもう一つ」
安西が別の映像を開いた。これは転落事件とは別の場所のカメラだ。都内の繁華街。日付は――冴が刺された夜。
「この映像は、朽木先生が刺された現場から約三百メートル離れた場所の防犯カメラです。偶然、転落事件の調査で近隣エリアのカメラデータを収集していたときに見つけました」
画面の中で、フードを被った長身の人物が繁華街を歩いている。裏路地の方向に向かって。時刻は冴が刺される約十五分前。
「歩行パターンの一致率を計算しました」
安西がモニターに数字を表示した。
「九十五パーセント」
冴は画面を見つめた。自分を刺した人物と、柏木を殺した人物が、歩行パターンで九十五パーセント一致する。
「安西。これで何人分の事件が繋がった」
「第一の事件は目撃証言のみで映像がありませんが、第二の事件の犯人と、朽木先生を刺した人物は同一と見て間違いないかと」
嶋田が安西の肩を叩いた。
「大したもんだ」
安西は無表情のまま、小さくうなずいた。だが目の奥に、技術者としての静かな誇りが灯っているのを冴は見た。
「安西。一つ聞いていいか」
「何ですか」
「なぜ協力してくれている。最初は乗り気ではなかっただろう」
安西は眼鏡の位置を直し、冴を真っ直ぐに見た。
「私はデータを信じます。データが殺人を示しているなら、自殺として処理されたままにはできません」
安西は一拍おいて続けた。
「それに、朽木先生。先生の推理は確かに説明がつかないところがある。でもデータが先生の推理を裏付けている。私にとって大事なのは、そこです」
冴は小さくうなずいた。安西の信頼は、冴の能力ではなく、結果に向けられている。それは冴にとって、最も受け入れやすい形の信頼だった。
三者会議が終わり、冴は一人で研究室に戻った。
フードの女性。第二の事件と冴の刺傷事件の犯人は同一人物。映像、歩行パターン、体格、ペンダント。証拠は積み上がっている。
だがこの女性が誰なのか、まだわからない。
冴はデスクの引き出しから七枚の写真を取り出した。七人の死者。七つの事件。二つが繋がった。残りの五つにも、同じ女性の影があるはずだ。
窓の外に目を向けた。向かいのビルの五〇三号室は既に空だ。監視者は消えた。だがどこかで、まだ冴を見ている。
冴はブラインドを下ろし、デスクのライトだけを灯した。
第一と第二の事件を追って、わかったことを整理する。
犯人は三十代前後の女性。身長約百七十センチ。細身。黒いロングコートとフードを着用。首元に銀色のペンダント。カスタムブレンドの甘い香水を使用。カメラの位置を正確に把握する情報収集能力。そして、冴と同じ「能力」を持っている可能性。
これだけの情報がありながら、犯人の正体には届かない。
だが次の一手は見えている。第三の事件。園部真司。製薬会社の研究員。河川での溺死。
七つの事件を一つずつ解き、犯人の輪郭を掴む。その先に、鏡花の真実がある。
冴はノートを開き、第三の事件の調査計画を書き始めた。ペンが紙の上を走る音だけが、静かな研究室に響いていた。




