弔いの花――七つの墓前にて
墓石に刻まれた名前。藤原美咲。白い花が供えられている。
冴は墓前に立っていた。四月の風が桜の花びらを運んでくる。墓地は静かだった。風の音と、遠くの鳥の声。
隣に藤原信二が立っていた。美咲の父。三年前に会ったときより痩せていた。白髪が増えた。だが目は穏やかだった。
「朽木さん。来てくれたのか」
「遅くなりました」
「いや。来てくれただけで」
藤原が墓石を見つめた。冴は線香に火をつけ、手を合わせた。煙が空に昇っていく。甘い匂い。
「藤原さん。美咲さんのことをお話しします」
「聞かせてください」
「美咲さんは東栄製薬のインターンをしていたとき、鏡花プロジェクトのデータに触れました。不正に気づいた。告発しようとしていた。それが理由で命を狙われました」
藤原の肩が僅かに震えた。
「美咲は……告発しようとしていたのか」
「はい。美咲さんは正しいことをしようとしていた。嘘をつけない子だったんでしょう」
藤原が頷いた。涙が頬を伝った。
「美咲は嘘をつけない子だった。小さい頃から。嘘をつくと顔が赤くなって、すぐにバレた」
冴の中で美咲の記憶が疼いた。車の中で恐怖に震えていた二十三歳の女の子。友達と笑って、カフェでケーキを食べて、普通に生きていた。
「美咲さんの最期に、苦しみはありました。それは隠しません。でも、最後の瞬間まで生きようとしていた。必死に逃げようとしていた」
藤原が目を閉じた。涙を拭った。
「朽木さん。娘の声を届けてくれて、ありがとう」
老いた教師が頭を下げた。深く。冴は何も言えなかった。ただ頭を下げ返した。
◇
冴は七つの墓を巡った。
柏木亮太の墓。郊外の静かな墓地。柏木はIT企業の社員だった。東栄製薬のシステム保守でサーバーのデータを偶然見つけた。好奇心が命取りになった。墓石の前に、誰かが新しい花を供えていた。
園部真司の墓。園部は鈴音にデータを託そうとした。味方だった。殺す必要のなかった人間だった。
関口義人の墓。元刑事。最後まで真実を追い続けた男。冴と同じ傷を受けて死んだ。鈴音の刃の角度が同じだった。
水野遥の墓。ジャーナリスト。「告発しますよ。あなたの分も」。最後の言葉が冴の中に残っている。
仲村明日香の墓。鈴音が泣きながら手を組ませた女性。クラウドに残したデータが、最終的に神崎を追い詰める証拠の一つになった。
高梨昇の墓。作家。鈴音に「告発する側に回れ」と言った人間。鈴音にそう言ってくれた最初で最後の人。
それぞれの墓前で手を合わせた。線香の匂い。花の匂い。風。
記憶が一つずつ蘇る。七人の最期の映像。恐怖。苦痛。だがその奥に、それぞれの人生があった。友達と笑った日。家族と食事をした夜。仕事に打ち込んだ朝。普通の日常があった。
冴はそれを知っている。記憶を食べたから。
◇
最後の墓。
小さな墓石だった。世田谷区の寺院の一角。御堂が手配したものだった。墓石には「高宮鈴音」と刻まれている。
冴が着いたとき、御堂が既にいた。杖をついて、墓前に立っていた。花が供えてある。白い百合。
冴は御堂の隣に並んだ。二人は何も言わずに手を合わせた。
線香の煙が空に昇った。桜の花びらが舞っている。春の夕暮れ。
「御堂先生。鈴音は安らかでしたか」
「病院で看取った医師によると、最後は穏やかだったそうだ。『渡せた』と言って、微笑んだと」
冴は墓石に触れた。石は冷たい。鈴音の手の冷たさと同じだった。
だがそこに記憶はない。鈴音の記憶は全て冴の中にある。白い部屋。注射。電極。十七年の孤独。七つの殺人。そして、冴への想い。全部、冴の中にある。
「先生。鈴音のこと。覚えていてください」
「忘れるものか。死ぬまで覚えている」
御堂が目を閉じた。涙が一筋流れた。
二人は並んで歩き始めた。寺院の参道。桜が満開だった。花びらが風に舞い、二人の影に降りかかる。
多くは語らなかった。師弟の間に、言葉は要らなかった。沈黙が赦しを語っていた。
冴はまだ御堂を完全には赦せていなかった。二十二年間の沈黙。鈴音を見捨てた取引。だが鈴音は御堂を赦していた。鈴音の記憶がそう語っている。
いつか、冴も赦せる日が来るかもしれない。今はまだ分からない。だが、並んで歩くことはできる。
桜の花びらが冴の肩に落ちた。払わなかった。鈴音が好きだったかもしれない。桜。
知らない。鈴音が桜を好きだったかどうか、冴は知らない。二十五年の記憶の中に、桜の記憶はなかった。白い部屋にいたから。
冴は歩き続けた。参道の先に、夕暮れの空が広がっていた。




