死者は嘘をつかない――新しい朝
カウンセラーの声が穏やかだった。
「朽木さん。最近、フラッシュバックの頻度は」
「減っています。週に二、三回。以前は毎日でした」
「睡眠は」
「四、五時間は眠れるようになりました」
心療内科の診察室。窓の外で鳥が鳴いている。冴は椅子に座り、自分の手を見つめていた。この手で記憶を食べてきた。七人分の死と、鈴音の二十五年。その重みは消えない。消えなくていい。
「朽木さん。能力の代償としての解離症状は、完全には治らないかもしれません。ただ、管理する方法はあります。あなたはもう一人で抱え込まなくていい」
冴は頷いた。
一人で抱え込まなくていい。その言葉が、以前より軽く受け取れるようになっていた。
診察室を出た。ビルの外に夏の日差しが溢れている。事件から数ヶ月が経っていた。
◇
東都大学法医学教室。
廊下を歩くと、ホルマリンの匂いが鼻に届いた。かつて「最後かもしれない」と思ったこの匂い。今は「いつもの朝」の匂いに戻っている。
研究室のドアを開けた。
「おはようございます」
安西が声をかけてきた。デスクの上にノートパソコンを開いている。安西は半年前に捜査一課から法医学教室の連携担当に異動した。冴との信頼関係が評価されてのことだった。
「安西。今日の検体は」
「港区の変死案件です。検視は済んでいますが、司法解剖の依頼が来ています」
「了解した」
黒田教授の部屋の前を通った。ドアが開いていた。黒田が冴を見た。複雑な表情。能力のことが世間に知れた後、この教室での冴の立場は変わった。同僚の中には冴を避ける者もいる。だが黒田は冴を復帰させた。「この教室の法医学者であることに変わりはない」。あの言葉通りに。
「朽木くん。今日の案件、頼むよ」
「はい」
黒田が僅かに頷いた。それだけで充分だった。
◇
昼休み。駅前のカフェ。
薫が向かいに座っていた。アイスコーヒーを飲みながら、冴を見ている。
「冴。顔色よくなったね」
「そうか」
「前は目の下に隈がなくなった日がなかったでしょう。今日は薄い」
「睡眠が改善した。カウンセリングの効果だと思う」
薫が笑った。柔らかい笑顔。
「カウンセリングに通えるようになったこと自体が、進歩だよ。前の冴なら絶対に行かなかった」
冴はコーヒーを飲んだ。苦い。薫の目を見た。
「薫。今の関係は、何だ」
「何って」
「三年前とは違う。前は壁があった。今はない」
薫がカップを置いた。テーブルの上で二人の手が触れた。
「壁がないから、ちゃんと見える。冴のことが。全部。能力も、傷も、強さも、弱さも。前は見えなかった」
「見えて、どうだ」
「好きだよ。前より」
冴の頬が僅かに熱くなった。薫が笑った。
「冴が照れてるの、初めて見た」
「照れていない」
「嘘。法医学者は嘘がつけないんでしょう」
冴は目を逸らした。カフェの窓の外に、夏の陽射しが揺れている。
◇
午後。法医学教室の解剖室。
ステンレスの台に遺体が横たわっている。六十代の男性。港区の自宅で発見された変死案件。
冴は白衣の袖をまくった。ラテックス手袋をはめる。通常の検屍手順。まずは外表検査。損傷の有無。死斑の分布。硬直の程度。
安西が記録を取っている。
冴は手袋を外した。
素手。右手を遺体の手に重ねた。
冷たい。死者の冷たさ。だがその奥に、記憶の残響がある。
指先に意識を集中した。壁がある。いつもの壁。冴はそっと押した。壁が崩れた。
記憶が流れ込んできた。
暗い部屋。男は独り暮らしだった。テレビが点いている。画面にはニュース。男はソファに座り、胸を押さえた。痛み。左腕が痺れる。携帯に手を伸ばした。届かなかった。床に崩れ落ちた。天井を見ている。天井の染みが滲んでいく。
最後に見えたのは、テーブルの上の写真立て。若い男女が笑っている。男の目から涙がこぼれた。
冴は手を離した。
鼻血は出なかった。鈴音の記憶を食べたときとは違う。一人分の記憶は穏やかだ。
「朽木先生。何か分かりましたか」
安西の声。冴は目を開けた。
「自然死の可能性が高い。心臓発作。最後に写真立てを見ていた。若い男女の写真。家族だと思われる。独り暮らしで、助けを呼べなかった」
安西がメモを取った。
「通常の検屍で確認しますね」
「ああ。頼む」
冴は遺体を見下ろした。
この人にも人生があった。家族がいた。最後の瞬間に家族の写真を見た。それだけのことだ。だが、それだけのことが、冴にとっては意味がある。
記憶を食べた。一人分の死。一人分の人生の最期。
そこにはもう「呪い」という言葉はなかった。
冴の能力は呪いではなかった。冒涜でもなかった。他者の痛みを引き受けること。死者の声を届けること。それが冴の選んだ生き方だった。
白衣の袖を直した。手袋をはめ直した。検屍を続ける。
夕方、教室を出た。廊下の蛍光灯が白く光っている。携帯が振動した。嶋田からだった。
「朽木先生。今度の週末、ラーメン行きませんか。凛ちゃんも呼びましょう」
「嶋田さん。昇進の話は」
「断った。現場がいい。デスクに座ってるより、足で稼ぐほうが性に合ってる」
冴の口元が緩んだ。
「行く。凛も呼ぶ」
電話を切った。
マンションに帰ると、夜が玄関で待っていた。黒い猫。尻尾を立てて、冴の足元に擦り寄ってくる。
「ただいま」
靴を脱ぎ、猫を抱き上げた。温かい。喉がゴロゴロと鳴っている。
窓の外に夕暮れの空が広がっている。東京の街に灯りが点き始めている。一つ一つの灯りの下に、人がいる。生きて、いずれ死ぬ。死者の声は聞こえない。冴以外には。
だからこそ、冴がいる。
死者は嘘をつかない。だから私が、その声を届ける。
冴は白衣をハンガーにかけ、夜にご飯をあげた。猫が音を立てて食べている。その音を聞きながら、冴は新しい一日の終わりを迎えた。
明日もまた、記憶を食べる。それが冴の使命だから。




