実証――死者の声を聴く者
時計の秒針が刻む音だけが聞こえた。
東京地検・特別室。地下二階。蛍光灯の白い光が、ステンレスの解剖台を照らしている。室温は摂氏十五度に設定されている。冴の吐く息が白い。
立会人は四人。検察の結城副部長。法医学の外部顧問。警察の監察委員。そして記録係。全員が白衣を着ている。
冴は解剖台の前に立っていた。台の上にブルーシートが敷かれ、その上に遺体が横たわっている。五十代の男性。死因は心不全の疑いで、検視は済んでいるが司法解剖は未了。冴はこの遺体について、名前も死亡状況も何も知らされていない。
結城が口を開いた。白髪交じりの短髪に、鋭い目。
「朽木冴さん。これから行う実験の手順を確認します。あなたはこの遺体に触れ、得られた情報を口頭で述べてください。内容は全て記録されます。後日、捜査で判明した事実と照合します」
「了解しました」
「手袋は外してください」
冴はラテックス手袋を外した。素手。十年以上、この手で記憶を食べてきた。だが、これほど多くの目の前でやるのは初めてだ。
心臓が打っている。こめかみの血管が脈動している。手が震えている。冴は右手を握り締め、開いた。
四人の視線が冴に集中している。記録係のペンが紙の上で止まっている。静寂。時計の音だけ。
冴は遺体の右手に触れた。
冷たい。死者の冷たさ。遺体が冷蔵保管されていたため、通常より温度が低い。だが表面の下に、微かな残響がある。記憶の気配。
指を押し当てた。意識を集中した。壁がある。いつもより厚い。時間が経っている。鈴音の記憶を食べた後で、冴の能力は過負荷状態にある。頭の中で七人分の記憶がざわめいている。
壁を押した。
崩れた。
記憶が流れ込んできた。
夜。マンションの一室。テーブルの上にウイスキーのボトルと氷。窓の外に東京タワーが見えている。赤い光。
男は誰かと電話をしている。声が怒っている。
「話が違うだろう。あの土地は俺が先に押さえていたんだ。勝手に名義を変えるな」
電話が切れる。男はウイスキーを煽る。氷がグラスの中でぶつかる音。
ドアのチャイムが鳴る。男が立ち上がる。玄関を開ける。
立っているのは若い男。三十代。黒いジャケット。右手にスポーツバッグ。
「久しぶりですね、社長」
声が聞こえる。だが顔は死者の恐怖で歪んでいる。輪郭は分かる。左頬に小さな傷がある。
若い男が部屋に入ってくる。バッグからは何かを取り出す動作。
衝撃。胸の痛み。
男の視界が傾く。床に倒れる。天井が見えている。天井のシーリングライトが眩しい。
暗転。
冴は手を離した。
呼吸が荒い。鼻血が出ている。だが意識は保っている。鈴音の記憶を七人分食べた後では、一人分の記憶は負荷が軽い。
結城が冴を見つめていた。冴は口を開いた。
「死亡推定時刻の夜間、自宅マンションで死亡しています。部屋からは東京タワーが見えます。死の直前に電話をしていた。土地の名義変更について怒っていた。不動産関連のトラブルです」
記録係のペンが走った。
「死の直前にドアのチャイムが鳴り、来訪者がいます。三十代の男性。黒いジャケット。左頬に小さな傷がある。スポーツバッグを持っていた。この男性と被害者は面識がある。来訪者を『社長』と呼んでいた」
結城の表情が変わった。
「バッグから何かを取り出す動作の後、被害者は胸部に衝撃を受けて倒れています。心不全ではない可能性があります」
室内が静まった。法医学の外部顧問が冴を凝視していた。
「今述べた内容は、遺体から得た記憶に基づいています。死者の主観映像のため、歪みがある可能性があります。特に来訪者の顔は恐怖で歪んでおり、正確な容貌は確認できていません。ただし左頬の傷は特徴的でした」
沈黙。
結城が口を開いた。
「朽木さん。あなたが今述べた情報のうち、我々がまだ把握していないものがいくつかあります。来訪者の存在。電話の内容。東京タワーが見えるという部屋の特徴。これらは現時点で捜査資料に記載されていません」
「記憶は死者の主観です。事実と異なる部分がある可能性は否定しません」
「承知しています。後日、捜査で照合します」
結城が冴を見た。検察官の目だった。懐疑と驚愕が入り混じっている。
「信じられない。だが、事実は認めざるを得ないかもしれない」
廊下に出た。蛍光灯の白い光が冴の疲弊した顔を照らした。壁にもたれた。足が震えている。
やった。
まだ結果の照合は終わっていない。だが結城の目は変わっていた。冴の言葉を「妄想」として切り捨てる目ではなかった。
携帯を取り出した。薫に電話した。
「終わった。結城は『信じられないが、認めざるを得ないかもしれない』と言った」
薫の声が震えた。
「冴。よくやった」
「まだだ。照合結果が出るまでは分からない」
「出るわ。あなたの能力は本物だから」
電話を切った。
冴は廊下を歩き始めた。足が重い。頭の中で七人分の記憶と、今食べたばかりの八人目の記憶が混ざり合っている。
薫の研究室に着いたとき、安西から連絡が入った。
「朽木先生。実証実験の映像が流出しました」
冴の足が止まった。
「流出。どこに」
「ネット上に。立会人の誰かがスマートフォンで撮影していた。映像はすでに拡散しています。世間が騒然としています」
冴は携帯を握りしめた。薫がスマートフォンの画面を見せた。画面上をSNSの投稿が嵐のように流れている。
「超能力者」「詐欺」「本物」「化け物」
言葉の洪水。冴の名前が世界に晒された。




