第二の死者――屋上の残像
港区の商業ビル。二十二階建て。三年前、IT企業社員の柏木亮太が屋上から転落し死亡した場所だ。
冴と嶋田は正面エントランスの前に立ち、ビルを見上げた。十二月の冷たい風がビルの谷間を吹き抜け、冴のコートの裾を煽る。首を反らして屋上のフェンスを見ると、灰色の空にその輪郭が溶けていた。二十二階。あそこから落ちれば、人間の体がどうなるか、冴は正確に知っている。
「自殺、として処理されたんだったな」
嶋田が手帳を開きながら言った。
「柏木亮太、二十八歳。IT企業のプログラマー。勤務先はこのビルの十五階。午後十時過ぎ、残業を終えて退社した後、なぜか屋上に上がり転落。遺書なし。精神科の通院歴なし。だが上司の証言で『最近元気がなかった』というのがあり、自殺で片付いた」
「元気がなかった、だけで自殺になるのか」
「俺に言うな。所轄の判断だ。当時は特命対策室が口を挟む前に書類が回った」
嶋田の声に苦い響きがあった。見逃された事件。美咲と同じだ。
「朽木先生。正直に言う。柏木の件は俺も引っかかっていた」
嶋田はビルの外壁を見上げながら、低い声で続けた。
「自殺する人間には大抵サインがある。通院歴か、遺書か、周囲への別れの言葉か。柏木には何もなかった。上司の『元気がなかった』は、残業続きのプログラマーなら誰でもそうだ。あれは自殺の動機じゃない」
「嶋田さんが当時関わっていたら」
「別件で手が離せなかった。後で報告書だけ読んで、胸糞悪いなと思っただけだ」
嶋田はポケットに手を突っ込み、拳を握った。叩き上げの刑事が二十年の経験で磨いた勘が、当時「これは違う」と告げていた。だが動けなかった。そのことが嶋田の中で小さな棘になっている。冴にはそれが見えた。
二人はビルの管理会社に事前に連絡を取り、防犯設備の確認を名目に入館した。嶋田の刑事バッジが効いた。管理会社の担当者は中年の男性で、三年前の事件を覚えていた。
「屋上は通常施錠されています。鍵は管理室にしかありません。あの日、柏木さんがどうやって屋上に入ったかは、当時の警察にも説明できませんでした」
「つまり鍵を持っている人間が開けたか、あるいは施錠されていなかった」
「施錠の確認記録では、事件当日の午後六時に最終施錠しています。ただ……当時の管理人はもう退職しておりまして」
嶋田が眉を上げた。管理人の退職時期を確認すると、事件の二ヶ月後だった。
エレベーターで屋上に向かった。管理室から借りた鍵で重い鉄の扉を開けると、冬の風が一気に吹きつけてきた。
屋上は何もないコンクリートの平面だった。空調の室外機が並ぶ一角を除けば、遮蔽物はない。フェンスの高さは腰の位置。大人が身を乗り出せば、容易に重心がフェンスの向こうに移る。
冴は法医学者の目でフェンスを確認した。三年前の鑑識写真では、フェンスの表面に柏木の掌紋が付着していた。位置はフェンスの上端。しがみついた痕跡と解釈された。だが冴は別の可能性を考えている。押された。あるいは後ずさった。フェンスに触れたのは、落ちまいとして最後に掴んだ瞬間だ。
二十二階の風は容赦ない。冴のコートが大きく膨らみ、髪が顔にかかる。東京の街並みが足元にミニチュアのように広がっている。ここから人間が落ちたら、地面に到達するまで約三秒。三秒間の自由落下。その間に柏木が何を思ったか、冴にはまだわからない。
嶋田がフェンスに近づき、下を覗いた。
「この高さのフェンスなら、乗り越えるのも、押されるのも容易だ。だが柏木が自分の意思で来たとは限らない」
「防犯カメラは」
「屋上にはない。エレベーターホールと一階エントランスにだけある。当時の映像は……」
嶋田は管理会社に確認した。三年前のデータは保存期間が過ぎて上書きされている。だがバックアップテープが倉庫にある可能性があるという。
「入退館記録は残っていますか」
管理担当者がファイルを調べ、事件当日のログを出力した。嶋田と冴がテーブルを挟んで記録を確認する。
柏木亮太。十五階。入館午前八時五十七分。退館午後十時十三分。これは問題ない。
だがその三行下に、不自然な記録があった。
入館者不明。入館時刻午後十時〇一分。カードリーダー未反応。手動記録なし。
「手動記録なし、というのは」
「当時の管理人が、入館者の顔を確認せずに通した可能性があります。あるいは裏口から入った場合、記録が残りません」
嶋田と冴の目が合った。
午後十時〇一分。柏木の転落推定時刻は午後十時十三分。
不明な入館者が入った十二分後に、柏木は屋上から落ちた。
「嶋田さん」
「ああ。十二分だ」
二人は同時に屋上を見上げた。十二分あれば、エレベーターで屋上に上がり、人を一人フェンスの向こうに落とし、再び降りてビルを出ることができる。
「当時の管理人の名前と連絡先を」
嶋田が管理担当者に詰め寄った。冴はビルの外に出て、周囲を見回した。正面エントランスの向かい側にコンビニがある。コンビニには防犯カメラがあるはずだ。三年前の映像は望めないが、現在のカメラ位置を確認しておく価値はある。
風が吹いた。ビルの谷間を駆け抜ける冷たい風に、冴は一瞬、あの甘い匂いを嗅いだ気がした。
気のせいだ。冴は首を振り、嶋田を待った。
美咲の事件と同じだ。表面上は単純な死に見える。だが掘り返すと、不自然な隙間が顔を出す。この隙間に、犯人の影が潜んでいる。
十二分。
それだけの時間で、人間一人を殺し、痕跡を消すことができる。
嶋田がビルから出てきた。手帳に何か書き込みながら、冴に歩み寄る。
「管理人は退職後、連絡がつかなくなっている。住所も変わっているらしい」
「消された、と考えるべきか」
「まだ早い。ただの引っ越しかもしれん。だが気持ち悪いな」
嶋田は手帳を閉じ、ビルを見上げた。
「柏木亮太。二十八歳。理工学部出身のプログラマー。趣味はオンラインゲームとプログラミング。交友関係は狭い。恋人なし。独身。一人暮らし」
「何のデータを扱っていたかは」
「IT企業のサーバー管理とデータベース運用、と報告書にはある。だがそれだけか。プログラマーが何のデータにアクセスしていたかまでは、当時の捜査は掘っていない」
「掘る必要がある」
「だな。安西に頼むか」
安西真帆。嶋田の部下で、デジタル捜査を専門とする若手刑事。冴はまだ会ったことがない。
「使えるのか」
「腕はいい。ただし癖がある。人の言うことを素直に聞くタイプじゃない」
嶋田は苦笑した。冴はうなずいた。
柏木亮太の件は、物的証拠の積み上げが必要だ。記憶を食べるにしても、遺体は火葬済みで標本が残っているかどうか。美咲のときのような組織標本があればいいが。
二人はビルを後にした。灰色の空の下、港区のビル群が無表情に立ち並んでいる。その一つの屋上から、三年前に人間が落ちた。自殺ではなく。
入退館ログの「不明な入館者」。柏木の転落の僅か十二分前。
犯人は、ここにも来ていた。




