表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
死者の記憶を食べる検屍官、自分を殺した犯人を追ううちに七つの未解決事件の真相に辿り着く  作者: ぽんぽこライフ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/34

喰らい直す記憶

 標本保管室は法医学教室の最奥にある。


 深夜零時を過ぎた研究棟に人気はない。冴はセキュリティカードで扉を開け、冷蔵保管庫の蛍光灯を点けた。青白い光が無機質な棚を照らす。ホルマリンの刺激臭が鼻を突いたが、冴にとってはもう空気と同じだった。


 棚を一段ずつ確認していく。三年前のラベル。事件番号順。指先でプラスチックケースの表面をなぞると、冷蔵庫の冷気が指の関節を強張らせた。


 F─〇三一七。


 藤原美咲。


 ケースを取り出し、蓋を開ける。ホルマリン液に浸された組織標本。皮膚と皮下組織の一部。解剖時に採取し、保管されていたもの。美咲の遺体は既に火葬されている。だがこの標本には、僅かながら残留記憶が宿っている可能性がある。


 組織標本から記憶を食べるのは、遺体から食べるより精度が格段に落ちる。断片的で、時系列が乱れ、映像が不鮮明になる。それでも冴にはやるしかなかった。


 保管室を出て、隣の解剖室に入った。ステンレスの解剖台が二台、青白い照明の下で鈍く光っている。排水溝から微かに水の匂いがする。深夜の解剖室は、冴が最も落ち着ける場所であり、同時に最も多くの死者の記憶が染み付いた場所だった。


 冴は標本を解剖台の上に置いた。


 手袋を外す。


 素手を組織標本の上に翳し、深く息を吸った。


 三年ぶりに、藤原美咲の記憶を食べる。


 恐怖はある。一度食べた記憶を再び食べるということは、既に堆積した死者の感情の上に同じ層をもう一度重ねることだ。精神的な負荷は通常の比ではない。


 だが美咲の手帳の記号、目撃者の証言、爪下の繊維片。すべてが「もう一度見ろ」と指し示している。


 冴は目を閉じ、呼吸を整えた。吸って、吐いて、吸って。心拍を落ち着かせる。記憶を食べるとき、冴自身の感情が混入すると、映像が歪む。できる限り平坦な精神状態で臨む必要があった。


 だが今夜は駄目だった。腹の傷が疼く。七枚の写真が脳裏にちらつく。藤原信二の枯れた手の感触が、まだ掌に残っている。


 構わない。不完全でもいい。三年前に見落としたものを、一つでも拾えればいい。


 冴は指先を標本に触れた。


 ホルマリンの冷たい液体を通して、微かな電流のようなものが指先から腕を伝い、脊髄を走って脳に達する。


 世界が裂けた。


 解剖室の青白い照明が消え、冴の視界が別の場所に切り替わる。


 車内。


 夜。助手席。グレーのファブリックシートの感触が背中にある。フロントガラスの向こうに暗い道路が流れている。運転席には誰かがいるが、顔が見えない。記憶の主観が美咲のものだから、美咲が運転席を見ていなければ映らない。


 ダッシュボードの時計が午後十一時十五分を示している。


 ラジオが小さな音で流れていた。深夜のニュース番組。


 そして匂い。


 甘い。ジャスミン。バニラ。ムスク。アルデヒドの冷たい透明感。車内に充満するその香りが、美咲の記憶の中でひどく鮮明に刻まれている。


 美咲の心拍が速い。手のひらに汗をかいている。膝の上で握りしめた拳が震えている。


 恐怖。


 美咲は怖がっている。この車に乗っていること自体を、後悔している。


 運転席の人物が何か言った。声は低く、柔らかい。女性の声だ。だが言葉が記憶の劣化で聞き取れない。音声が水中で聞くように歪み、輪郭だけが残る。


 美咲が窓の外を見た。見慣れない道。どこに向かっているのかわからない。問いかけようとして、口を開きかけたとき。


 次の瞬間、美咲の首に手が伸びてきた。


 冴の体が解剖室で強張った。美咲の恐怖が冴の恐怖になる。首を絞める手の圧力。爪が首筋に食い込む。息ができない。視界が赤く濁る。


 美咲は必死に手を振り払い、ドアのハンドルを掴んだ。引く。ロックが外れる。走行中の車から半身を投げ出し、アスファルトに転がった。両手と両膝が削れて血が出る。痛みは感じていない。恐怖がすべてを塗り潰している。


 立ち上がる。走る。背後で車がブレーキを踏む音。


 甘い匂いが追いかけてくる。


 美咲は車道に飛び出した。


 ヘッドライトが視界を白く焼く。


 衝撃。


 記憶が途切れた。


 ――いや、途切れていない。


 冴は意識を集中した。標本からの記憶は断片的だが、今回はもう少し深い層にアクセスできている。


 衝撃の後。


 アスファルトの冷たさ。美咲の体が仰向けに倒れている。視界がぼやけ、星が見えているのか街灯なのかわからない光の粒が散っている。痛みはもう感じない。体が遠くなっていく。


 足音。


 誰かが近づいてくる。美咲の目が、最後の力で焦点を合わせようとする。


 長身の人物が、美咲の上に立っている。


 逆光。顔は見えない。街灯の光がその人物の輪郭をシルエットに変えている。


 だが首元に、何かが光った。


 ペンダント。銀色の、細い鎖。先端についた装飾の形が、一瞬だけ鮮明に映った。


 そこで、美咲の記憶は終わった。



  ◇



 冴は解剖室のタイル床に倒れていた。


 いつ倒れたのかわからない。背中が冷たい。全身が震えている。蛍光灯の光が天井で白く燃えている。鼻から血が流れ、唇を伝って顎に落ちた。温かい。


 しばらく動けなかった。


 美咲の恐怖が、まだ冴の体に残っている。首を絞められた圧迫感。車外に飛び出したときのアスファルトの衝撃。轢かれた瞬間の、体中の骨が砕ける音。それが冴自身の記憶として焼き付いた。


 こめかみが脈打つように痛む。頭の奥で、食べた記憶が沈殿しようとしている。


 冴は床に横たわったまま、天井を見つめた。


 わかったことがある。


 美咲は「事故」ではなかった。車内で首を絞められ、逃げ出したところを撥ねられた。犯人は長身の人物。声は女性。そして甘い香水。


 そして――首元に光るペンダント。銀色の細い鎖に下がった装飾。あの形を、冴は記憶に刻んだ。


 鼻血を手の甲で拭い、ゆっくりと体を起こした。タイル床の冷たさが掌に沁みる。


 解剖台の上の標本をケースに戻し、蓋を閉めた。F─〇三一七。藤原美咲。


「……ありがとう」


 冴は標本に向かって、声にならない声で呟いた。美咲の記憶をもう一度食べた。もう一度、彼女の恐怖を追体験した。その重みが、冴の体の奥に新たな層として沈んでいく。


 だがこれで、一つ確かなことがわかった。


 犯人には顔がある。名前がある。身体がある。


 そして首元に、特徴的なペンダントをつけている。


 手洗い場で鼻血を洗い流し、鏡を見た。青白い蛍光灯に照らされた自分の顔は、解剖台の上の遺体のように血の気がない。目の下に濃い隈。頬はこけ、唇が乾いている。


 鏡の中の自分に向かって、冴は呟いた。


「記憶は嘘をつく。だが、あのペンダントは嘘じゃない」


 美咲の主観に歪められた記憶の中で、犯人の顔は逆光に消されていた。だが物理的な光の反射――ペンダントの輝き――は、感情の歪みを受けにくい。あれは信頼できる情報だ。


 次は第二の事件。柏木亮太。ビルからの転落死。


 七つの事件を一つずつ辿っていく。犯人の影を追って。


 冴は保管室の蛍光灯を消し、暗い廊下に出た。深夜の研究棟を歩く足音だけが、壁に反響して消えていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ