喰らい直す記憶
標本保管室は法医学教室の最奥にある。
深夜零時を過ぎた研究棟に人気はない。冴はセキュリティカードで扉を開け、冷蔵保管庫の蛍光灯を点けた。青白い光が無機質な棚を照らす。ホルマリンの刺激臭が鼻を突いたが、冴にとってはもう空気と同じだった。
棚を一段ずつ確認していく。三年前のラベル。事件番号順。指先でプラスチックケースの表面をなぞると、冷蔵庫の冷気が指の関節を強張らせた。
F─〇三一七。
藤原美咲。
ケースを取り出し、蓋を開ける。ホルマリン液に浸された組織標本。皮膚と皮下組織の一部。解剖時に採取し、保管されていたもの。美咲の遺体は既に火葬されている。だがこの標本には、僅かながら残留記憶が宿っている可能性がある。
組織標本から記憶を食べるのは、遺体から食べるより精度が格段に落ちる。断片的で、時系列が乱れ、映像が不鮮明になる。それでも冴にはやるしかなかった。
保管室を出て、隣の解剖室に入った。ステンレスの解剖台が二台、青白い照明の下で鈍く光っている。排水溝から微かに水の匂いがする。深夜の解剖室は、冴が最も落ち着ける場所であり、同時に最も多くの死者の記憶が染み付いた場所だった。
冴は標本を解剖台の上に置いた。
手袋を外す。
素手を組織標本の上に翳し、深く息を吸った。
三年ぶりに、藤原美咲の記憶を食べる。
恐怖はある。一度食べた記憶を再び食べるということは、既に堆積した死者の感情の上に同じ層をもう一度重ねることだ。精神的な負荷は通常の比ではない。
だが美咲の手帳の記号、目撃者の証言、爪下の繊維片。すべてが「もう一度見ろ」と指し示している。
冴は目を閉じ、呼吸を整えた。吸って、吐いて、吸って。心拍を落ち着かせる。記憶を食べるとき、冴自身の感情が混入すると、映像が歪む。できる限り平坦な精神状態で臨む必要があった。
だが今夜は駄目だった。腹の傷が疼く。七枚の写真が脳裏にちらつく。藤原信二の枯れた手の感触が、まだ掌に残っている。
構わない。不完全でもいい。三年前に見落としたものを、一つでも拾えればいい。
冴は指先を標本に触れた。
ホルマリンの冷たい液体を通して、微かな電流のようなものが指先から腕を伝い、脊髄を走って脳に達する。
世界が裂けた。
解剖室の青白い照明が消え、冴の視界が別の場所に切り替わる。
車内。
夜。助手席。グレーのファブリックシートの感触が背中にある。フロントガラスの向こうに暗い道路が流れている。運転席には誰かがいるが、顔が見えない。記憶の主観が美咲のものだから、美咲が運転席を見ていなければ映らない。
ダッシュボードの時計が午後十一時十五分を示している。
ラジオが小さな音で流れていた。深夜のニュース番組。
そして匂い。
甘い。ジャスミン。バニラ。ムスク。アルデヒドの冷たい透明感。車内に充満するその香りが、美咲の記憶の中でひどく鮮明に刻まれている。
美咲の心拍が速い。手のひらに汗をかいている。膝の上で握りしめた拳が震えている。
恐怖。
美咲は怖がっている。この車に乗っていること自体を、後悔している。
運転席の人物が何か言った。声は低く、柔らかい。女性の声だ。だが言葉が記憶の劣化で聞き取れない。音声が水中で聞くように歪み、輪郭だけが残る。
美咲が窓の外を見た。見慣れない道。どこに向かっているのかわからない。問いかけようとして、口を開きかけたとき。
次の瞬間、美咲の首に手が伸びてきた。
冴の体が解剖室で強張った。美咲の恐怖が冴の恐怖になる。首を絞める手の圧力。爪が首筋に食い込む。息ができない。視界が赤く濁る。
美咲は必死に手を振り払い、ドアのハンドルを掴んだ。引く。ロックが外れる。走行中の車から半身を投げ出し、アスファルトに転がった。両手と両膝が削れて血が出る。痛みは感じていない。恐怖がすべてを塗り潰している。
立ち上がる。走る。背後で車がブレーキを踏む音。
甘い匂いが追いかけてくる。
美咲は車道に飛び出した。
ヘッドライトが視界を白く焼く。
衝撃。
記憶が途切れた。
――いや、途切れていない。
冴は意識を集中した。標本からの記憶は断片的だが、今回はもう少し深い層にアクセスできている。
衝撃の後。
アスファルトの冷たさ。美咲の体が仰向けに倒れている。視界がぼやけ、星が見えているのか街灯なのかわからない光の粒が散っている。痛みはもう感じない。体が遠くなっていく。
足音。
誰かが近づいてくる。美咲の目が、最後の力で焦点を合わせようとする。
長身の人物が、美咲の上に立っている。
逆光。顔は見えない。街灯の光がその人物の輪郭をシルエットに変えている。
だが首元に、何かが光った。
ペンダント。銀色の、細い鎖。先端についた装飾の形が、一瞬だけ鮮明に映った。
そこで、美咲の記憶は終わった。
◇
冴は解剖室のタイル床に倒れていた。
いつ倒れたのかわからない。背中が冷たい。全身が震えている。蛍光灯の光が天井で白く燃えている。鼻から血が流れ、唇を伝って顎に落ちた。温かい。
しばらく動けなかった。
美咲の恐怖が、まだ冴の体に残っている。首を絞められた圧迫感。車外に飛び出したときのアスファルトの衝撃。轢かれた瞬間の、体中の骨が砕ける音。それが冴自身の記憶として焼き付いた。
こめかみが脈打つように痛む。頭の奥で、食べた記憶が沈殿しようとしている。
冴は床に横たわったまま、天井を見つめた。
わかったことがある。
美咲は「事故」ではなかった。車内で首を絞められ、逃げ出したところを撥ねられた。犯人は長身の人物。声は女性。そして甘い香水。
そして――首元に光るペンダント。銀色の細い鎖に下がった装飾。あの形を、冴は記憶に刻んだ。
鼻血を手の甲で拭い、ゆっくりと体を起こした。タイル床の冷たさが掌に沁みる。
解剖台の上の標本をケースに戻し、蓋を閉めた。F─〇三一七。藤原美咲。
「……ありがとう」
冴は標本に向かって、声にならない声で呟いた。美咲の記憶をもう一度食べた。もう一度、彼女の恐怖を追体験した。その重みが、冴の体の奥に新たな層として沈んでいく。
だがこれで、一つ確かなことがわかった。
犯人には顔がある。名前がある。身体がある。
そして首元に、特徴的なペンダントをつけている。
手洗い場で鼻血を洗い流し、鏡を見た。青白い蛍光灯に照らされた自分の顔は、解剖台の上の遺体のように血の気がない。目の下に濃い隈。頬はこけ、唇が乾いている。
鏡の中の自分に向かって、冴は呟いた。
「記憶は嘘をつく。だが、あのペンダントは嘘じゃない」
美咲の主観に歪められた記憶の中で、犯人の顔は逆光に消されていた。だが物理的な光の反射――ペンダントの輝き――は、感情の歪みを受けにくい。あれは信頼できる情報だ。
次は第二の事件。柏木亮太。ビルからの転落死。
七つの事件を一つずつ辿っていく。犯人の影を追って。
冴は保管室の蛍光灯を消し、暗い廊下に出た。深夜の研究棟を歩く足音だけが、壁に反響して消えていった。




