遺された者の声
足立区の古いアパートの階段は、踏むたびに軋んだ。
二階の廊下を歩きながら、冴はコートのポケットに入れた手が汗ばんでいることに気づいた。遺体には何百回と向き合ってきた。だが遺族に会うのは、いつも別の種類の緊張を強いる。死者の記憶を食べた人間が、何も知らないふりをして遺族の前に座る。それがどれほどの欺瞞か、冴は自覚していた。
二〇三号室。表札には「藤原」とだけ書かれている。インターホンを押すと、しばらくして鍵の回る音がした。
ドアを開けたのは、痩せた初老の男性だった。藤原信二。美咲の父。六十代後半。元教師だと事前に聞いていたが、背筋はまっすぐで、目だけが深く窪んでいた。三年間の喪失が、顔の輪郭を削り取ったように見えた。
「朽木先生。お電話いただいた方ですね」
「はい。お時間をいただきありがとうございます」
通されたリビングは、時間が止まっていた。
壁に美咲の写真が何枚も貼られている。高校の制服姿。大学の卒業式。友人との旅行。就職活動のスナップ。テーブルの食器棚には二人分の茶碗と箸がそのまま残されていた。もう三年、片方の席に座る人間はいないのに。
埃を被った教科書が本棚の一角を占めている。教師だった藤原が退職後も手放さなかったのか、あるいは美咲の教科書なのか。部屋の空気は線香とかすかなカビの匂いが混じっていて、冴は胸の奥が締め付けられるのを感じた。
「お茶をどうぞ」
藤原が出した湯呑みの縁が僅かに欠けている。冴はそれを両手で包み、熱を受け取った。
「先生は、美咲の解剖をされた法医学者だと伺いました」
「はい。三年前、東都大学法医学教室で司法解剖を担当しました」
「それで……何か、新しくわかったことがあるのですか」
藤原の声は静かだった。期待と諦めが綯い交ぜになった、遺族特有の声だった。冴はその声を聞くたびに、自分の中の何かが軋む。
「現在、個人的に再調査を進めています。藤原さんにいくつかお伺いしたいことがあります」
藤原はうなずき、座り直した。
「美咲さんは亡くなる数週間前、何か変わった様子はありませんでしたか」
藤原はしばらく黙った。湯呑みの中の茶を見つめ、やがてゆっくりと口を開いた。
「怯えていました」
「怯えていた」
「最後の一ヶ月くらい。帰りが遅くなると電話をかけてきて、玄関まで迎えに来てほしいと。あの子は昔からしっかりした子で、そんなこと言う子じゃなかった」
藤原の指が膝の上で握りしめられた。
「『誰かに見られている気がする』と。最初は気のせいだろうと言いました。でも日に日にひどくなって。最後の週は、夜、カーテンの隙間を何度も確かめていた」
「誰かに見られている、と」
「ストーカーかと思って警察に相談しようとしましたが、美咲が止めたんです。『大げさにしないで』と。あの子は嘘をつけない子でした。自分が怖がっていることを認めたくなかったんだと思います」
冴は記録を取りながら、三年前に食べた記憶を頭の中で重ね合わせていた。美咲の記憶には、死の直前の車内での暴行しか映っていなかった。だがその数週間前から、美咲は既に追われていた。
「藤原さん。美咲さんは東栄製薬でインターンをされていたと聞いています」
「ええ。大学四年の夏から。製薬会社の研究職を志望していて。でもインターンが終わる少し前に、突然辞めると言い出したんです」
「辞めた理由は」
「言いませんでした。ただ……『見てはいけないものを見た』と、一度だけ。私が問い詰めると、すぐに冗談だと笑いましたが」
見てはいけないもの。冴の背中に冷たいものが走った。
藤原は立ち上がり、壁際のチェストの引き出しを開けた。中から一冊の手帳を取り出す。使い込まれた革のカバー。ページをめくると、微かに甘い匂いがした。美咲が使っていたハンドクリームの残り香だろう。三年経っても、革に染み込んだ匂いは消えていなかった。
「これは美咲の手帳です。遺品です。警察には一度見せましたが、特に重要なものはないと言われて返されました」
藤原が手帳を差し出す。冴はそれを受け取り、ページをめくった。予定、メモ、走り書き。大学の講義ノートのような記述もある。
最後の数ページに差しかかったとき、冴の手が止まった。
白いページの中央に、記号が一つ描かれている。
円の中に二本の曲線が交差する図形。幾何学的でありながら、どこか有機的な形状。
冴はその図形を知っていた。
三年前、美咲の記憶を食べたとき、美咲の意識の奥に何度も現れた図形だ。美咲が死の直前に思い浮かべていたもの。恐怖の中で、なぜか繰り返し脳裏に浮かんでいた記号。
冴の中にだけ存在するはずのもの。食べた記憶の中でしか見ることができないはずの図形が、美咲自身の手帳にも描かれていた。
つまり、この図形は記憶の中の幻影ではなく、現実に存在するものだ。美咲は生前、この記号を手帳に書き留めるほど気にかけていた。
「この記号について、何かご存知ですか」
藤原は首を横に振った。
「さあ……何かの落書きかと思っていましたが」
冴は手帳を閉じ、藤原に返した。指先に残る革の感触と、微かな甘い匂い。
「藤原さん。美咲さんは、苦しまなかったと思います」
嘘だった。美咲は苦しんだ。首を絞められ、恐怖の中で車から逃げ出し、ヘッドライトの光の中で最後の瞬間を迎えた。だが遺された父にその真実を告げることは、冴にはできなかった。
藤原の目が潤んだ。皺だらけの手で目頭を押さえ、何度もうなずいた。
「ありがとうございます。それを聞けただけで……」
藤原は何度もうなずきながら、壁の写真に目を向けた。笑っている美咲。まだ何も知らない、まだ怯えていない頃の美咲。
「先生。一つだけお願いがあります」
「何でしょう」
「もし……もしですが、美咲の死が事故ではなかったとしたら。真実を教えてください。どんなに辛くても、知りたいんです。父親として、娘に何が起きたのかを知らないまま死にたくない」
冴は答えに詰まった。この人に、何を言えるだろう。美咲は殺された。その記憶を冴は食べた。犯人は甘い香水を纏っていた。だがそのどれも、今は口にできない。
「わかりました。必ず」
それだけを言うのが精一杯だった。藤原の枯れた手が冴の手を握った。冷たく、骨ばった手。その手から、三年分の祈りの重みが伝わってきた。
冴は立ち上がり、深く頭を下げた。喉の奥に込み上げてくるものを、歯を食いしばって飲み込んだ。
◇
帰りの電車の中で、冴は座席に深く沈んでいた。
車窓を流れる夜の街灯が、等間隔に明滅する。車内には帰宅途中のサラリーマンやスマートフォンを見つめる学生がまばらに座っている。誰もが自分の世界に閉じこもり、隣の人間が何を抱えているかに関心を持たない。
冴だけが、死者の声を聞いている。
目を閉じると、美咲の記憶が薄く再生された。絞められる首。逃げる足。甘い香水。そして最後に吐いた息。声にならない悲鳴が、三年の時を経て冴の耳に蘇る。
手帳の記号。あの図形の意味がわかれば、美咲が何を知り、何に怯えていたのかが見えてくるはずだ。
冴はコートのポケットに手を入れ、七枚の写真の感触を確認した。美咲は一枚目だった。あと六人。六人の死者が冴を待っている。
電車が駅に滑り込む。ドアが開き、冷たい夜気が車内に流れ込んだ。冴は立ち上がり、ホームに降りた。
次は、美咲の記憶をもう一度食べる番だ。




