表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
死者の記憶を食べる検屍官、自分を殺した犯人を追ううちに七つの未解決事件の真相に辿り着く  作者: ぽんぽこライフ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/36

遺された者の声

 足立区の古いアパートの階段は、踏むたびに軋んだ。


 二階の廊下を歩きながら、冴はコートのポケットに入れた手が汗ばんでいることに気づいた。遺体には何百回と向き合ってきた。だが遺族に会うのは、いつも別の種類の緊張を強いる。死者の記憶を食べた人間が、何も知らないふりをして遺族の前に座る。それがどれほどの欺瞞か、冴は自覚していた。


 二〇三号室。表札には「藤原」とだけ書かれている。インターホンを押すと、しばらくして鍵の回る音がした。


 ドアを開けたのは、痩せた初老の男性だった。藤原信二。美咲の父。六十代後半。元教師だと事前に聞いていたが、背筋はまっすぐで、目だけが深く窪んでいた。三年間の喪失が、顔の輪郭を削り取ったように見えた。


「朽木先生。お電話いただいた方ですね」


「はい。お時間をいただきありがとうございます」


 通されたリビングは、時間が止まっていた。


 壁に美咲の写真が何枚も貼られている。高校の制服姿。大学の卒業式。友人との旅行。就職活動のスナップ。テーブルの食器棚には二人分の茶碗と箸がそのまま残されていた。もう三年、片方の席に座る人間はいないのに。


 埃を被った教科書が本棚の一角を占めている。教師だった藤原が退職後も手放さなかったのか、あるいは美咲の教科書なのか。部屋の空気は線香とかすかなカビの匂いが混じっていて、冴は胸の奥が締め付けられるのを感じた。


「お茶をどうぞ」


 藤原が出した湯呑みの縁が僅かに欠けている。冴はそれを両手で包み、熱を受け取った。


「先生は、美咲の解剖をされた法医学者だと伺いました」


「はい。三年前、東都大学法医学教室で司法解剖を担当しました」


「それで……何か、新しくわかったことがあるのですか」


 藤原の声は静かだった。期待と諦めが綯い交ぜになった、遺族特有の声だった。冴はその声を聞くたびに、自分の中の何かが軋む。


「現在、個人的に再調査を進めています。藤原さんにいくつかお伺いしたいことがあります」


 藤原はうなずき、座り直した。


「美咲さんは亡くなる数週間前、何か変わった様子はありませんでしたか」


 藤原はしばらく黙った。湯呑みの中の茶を見つめ、やがてゆっくりと口を開いた。


「怯えていました」


「怯えていた」


「最後の一ヶ月くらい。帰りが遅くなると電話をかけてきて、玄関まで迎えに来てほしいと。あの子は昔からしっかりした子で、そんなこと言う子じゃなかった」


 藤原の指が膝の上で握りしめられた。


「『誰かに見られている気がする』と。最初は気のせいだろうと言いました。でも日に日にひどくなって。最後の週は、夜、カーテンの隙間を何度も確かめていた」


「誰かに見られている、と」


「ストーカーかと思って警察に相談しようとしましたが、美咲が止めたんです。『大げさにしないで』と。あの子は嘘をつけない子でした。自分が怖がっていることを認めたくなかったんだと思います」


 冴は記録を取りながら、三年前に食べた記憶を頭の中で重ね合わせていた。美咲の記憶には、死の直前の車内での暴行しか映っていなかった。だがその数週間前から、美咲は既に追われていた。


「藤原さん。美咲さんは東栄製薬でインターンをされていたと聞いています」


「ええ。大学四年の夏から。製薬会社の研究職を志望していて。でもインターンが終わる少し前に、突然辞めると言い出したんです」


「辞めた理由は」


「言いませんでした。ただ……『見てはいけないものを見た』と、一度だけ。私が問い詰めると、すぐに冗談だと笑いましたが」


 見てはいけないもの。冴の背中に冷たいものが走った。


 藤原は立ち上がり、壁際のチェストの引き出しを開けた。中から一冊の手帳を取り出す。使い込まれた革のカバー。ページをめくると、微かに甘い匂いがした。美咲が使っていたハンドクリームの残り香だろう。三年経っても、革に染み込んだ匂いは消えていなかった。


「これは美咲の手帳です。遺品です。警察には一度見せましたが、特に重要なものはないと言われて返されました」


 藤原が手帳を差し出す。冴はそれを受け取り、ページをめくった。予定、メモ、走り書き。大学の講義ノートのような記述もある。


 最後の数ページに差しかかったとき、冴の手が止まった。


 白いページの中央に、記号が一つ描かれている。


 円の中に二本の曲線が交差する図形。幾何学的でありながら、どこか有機的な形状。


 冴はその図形を知っていた。


 三年前、美咲の記憶を食べたとき、美咲の意識の奥に何度も現れた図形だ。美咲が死の直前に思い浮かべていたもの。恐怖の中で、なぜか繰り返し脳裏に浮かんでいた記号。


 冴の中にだけ存在するはずのもの。食べた記憶の中でしか見ることができないはずの図形が、美咲自身の手帳にも描かれていた。


 つまり、この図形は記憶の中の幻影ではなく、現実に存在するものだ。美咲は生前、この記号を手帳に書き留めるほど気にかけていた。


「この記号について、何かご存知ですか」


 藤原は首を横に振った。


「さあ……何かの落書きかと思っていましたが」


 冴は手帳を閉じ、藤原に返した。指先に残る革の感触と、微かな甘い匂い。


「藤原さん。美咲さんは、苦しまなかったと思います」


 嘘だった。美咲は苦しんだ。首を絞められ、恐怖の中で車から逃げ出し、ヘッドライトの光の中で最後の瞬間を迎えた。だが遺された父にその真実を告げることは、冴にはできなかった。


 藤原の目が潤んだ。皺だらけの手で目頭を押さえ、何度もうなずいた。


「ありがとうございます。それを聞けただけで……」


 藤原は何度もうなずきながら、壁の写真に目を向けた。笑っている美咲。まだ何も知らない、まだ怯えていない頃の美咲。


「先生。一つだけお願いがあります」


「何でしょう」


「もし……もしですが、美咲の死が事故ではなかったとしたら。真実を教えてください。どんなに辛くても、知りたいんです。父親として、娘に何が起きたのかを知らないまま死にたくない」


 冴は答えに詰まった。この人に、何を言えるだろう。美咲は殺された。その記憶を冴は食べた。犯人は甘い香水を纏っていた。だがそのどれも、今は口にできない。


「わかりました。必ず」


 それだけを言うのが精一杯だった。藤原の枯れた手が冴の手を握った。冷たく、骨ばった手。その手から、三年分の祈りの重みが伝わってきた。


 冴は立ち上がり、深く頭を下げた。喉の奥に込み上げてくるものを、歯を食いしばって飲み込んだ。



  ◇



 帰りの電車の中で、冴は座席に深く沈んでいた。


 車窓を流れる夜の街灯が、等間隔に明滅する。車内には帰宅途中のサラリーマンやスマートフォンを見つめる学生がまばらに座っている。誰もが自分の世界に閉じこもり、隣の人間が何を抱えているかに関心を持たない。


 冴だけが、死者の声を聞いている。


 目を閉じると、美咲の記憶が薄く再生された。絞められる首。逃げる足。甘い香水。そして最後に吐いた息。声にならない悲鳴が、三年の時を経て冴の耳に蘇る。


 手帳の記号。あの図形の意味がわかれば、美咲が何を知り、何に怯えていたのかが見えてくるはずだ。


 冴はコートのポケットに手を入れ、七枚の写真の感触を確認した。美咲は一枚目だった。あと六人。六人の死者が冴を待っている。


 電車が駅に滑り込む。ドアが開き、冷たい夜気が車内に流れ込んだ。冴は立ち上がり、ホームに降りた。


 次は、美咲の記憶をもう一度食べる番だ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ