第一の死者――藤原美咲の交差点
モニターの中で、三年前の交差点が静止している。
冴は研究室の椅子に深く腰掛け、検屍時に撮影された現場写真を一枚ずつ送っていた。板橋区の幹線道路。午後十一時半。雨上がりのアスファルトに、ヘッドライトの光が反射して白く滲んでいる。
藤原美咲、当時二十三歳。横断歩道のない車道に飛び出し、走行中の乗用車に撥ねられた。運転手は速度超過もなく、回避不能とされた。事故死。
三年前の冴はその結論に異を唱えなかった。表向きには。
画面をスクロールし、遺体の検屍記録を開く。冴自身が書いた報告書だ。頭部打撲による脳挫傷、左側肋骨五本の骨折、肝臓裂傷。交通外傷として矛盾はない。
だが一箇所、冴は当時から引っかかっていた。
爪の下の繊維片。
美咲の右手、薬指と小指の爪の下から微量の繊維が検出されていた。報告書には「衝突時に衣類から付着した可能性」とだけ記載されている。冴自身がそう書いた。しかし繊維の色はグレーで、美咲が着ていた服は黒のコートと白のブラウスだった。
冴はデータベースを検索した。三年前の車両調査記録。撥ねた車の助手席シートの素材は黒のレザー。繊維の色と一致しない。では、このグレーの繊維はどこから来たのか。
冴が食べた記憶では、美咲は別の車――犯人の車の助手席にいた。その車内で首を絞められかけて逃げ出し、道路に飛び出したところを対向車に撥ねられた。繊維片は犯人の車のシート素材だった可能性がある。記憶と物的証拠が初めて繋がろうとしていた。
しかし食べた記憶は法廷で使えない。冴が見たのは死者の主観であり、科学的根拠ではない。だから三年前、冴は黙った。
今は違う。
自分が刺された。七枚の写真が届いた。もう黙っている理由がない。
冴はモニターから目を離し、デスクの引き出しから七枚の写真を取り出した。一枚目。藤原美咲。就職活動用のスナップ写真だろうか。きちんとした黒のジャケットに白いブラウス。カメラに向ける微笑みが少しだけぎこちない。二十三歳。東栄製薬のインターンだった。
この顔が、記憶の中では恐怖に歪んでいた。首を絞められ、息ができず、必死にドアを開けて車外に転がり出た。暗い道路。ヘッドライトの光。衝撃。
そして最後に、甘い香りだけが残った。
冴は写真を裏返し、デスクに伏せた。
三年前、この記憶を食べた自分は何を感じていただろう。罪悪感だ。死者の最も私的な恐怖を覗き見た罪悪感。それと同時に、事故ではなく殺人だという確信を持ちながら、何もできなかった無力感。
今度こそ。冴はモニターに向き直った。
◇
都内の路地裏にある小さな居酒屋。嶋田が指定した店は、カウンター八席と小上がりが一つだけの狭い店だった。揚げ物の油の匂いと、焼酎の甘い蒸気が混じった空気が充満している。
「繊維片が助手席シートと一致する可能性がある」
冴は小上がりの畳に正座し、手をつけていない生ビールの横にノートを広げた。嶋田は向かいであぐらをかき、枝豆を口に放り込みながら聞いていた。
「つまり被害者は事故に遭う前、その車の中にいた」
「記憶……私が見たものとも符合する。美咲は車内で暴行を受け、逃げ出した。だが直接の証拠がない。繊維片の素材同定が必要だ」
「三年前の証拠品が残ってるかどうかだな」
嶋田は箸を置き、冴を見た。
「朽木先生。正式な再捜査を申請するか」
「それは避けたい。まだ点が散らばっている段階で組織に知られたくない」
「特命対策室に知られたらまずいってことか」
冴は答えなかった。神崎怜司という名前がまだ冴の中で輪郭を持っていない。ただ、七枚の写真を送りつけた人間がいるなら、その人間は冴の行動を監視している可能性がある。警察の内部に、それができる人間がいるとすれば。
「非公式でいい。嶋田さんが個人的に動けるか」
嶋田は黙ってビールを一口飲んだ。グラスをテーブルに戻し、指で縁を叩く。
「七年だ」
「何が」
「先生と組んで七年。その間、先生の言うことを信じて動いて、結果が出なかったことは一度もない。先生がどうやって情報を得ているのか、俺は深くは聞かない。聞かないことにしている」
嶋田の目が、冴を真っ直ぐに見た。
「だが今回は先生自身が被害者だ。無茶をするなとは言わん。ただ、一人でやるな」
冴は小さくうなずいた。ビールに口をつけようとして、腹の傷が引き攣れ、手を止めた。嶋田がそれを見て、黙って枝豆の皿を冴の方に寄せた。
「三年前。美咲の事件のとき、俺はまだ所轄にいた」
嶋田はぽつりと言った。
「交通事故で処理されて、あっという間に書類が回った。遺族が納得してないのは知っていた。だが証拠がなかった」
「嶋田さんのせいじゃない」
「せいかどうかじゃない。見逃したことに変わりはない。――先生が記憶を食べて、あれが事故じゃないと言ったとき、俺はどこかでほっとしたんだ。自分の勘が間違ってなかったと」
嶋田はビールを飲み干した。
「今度こそ、落とし前をつける。まずは何をやる」
「目撃者の洗い直しだ。三年前の事故で、近くにいた人間の証言をもう一度確認したい」
◇
板橋区のアパート。三年前、事故の瞬間を目撃していた近隣住民の一人――橋本恵子、六十七歳――の自宅を訪ねたのは、二日後の午後だった。
線香の煙が漂う和室で、橋本は冴と嶋田を仏壇の前の座布団に通した。部屋の空気は重く湿っていて、古い畳の匂いが線香と混じり合っていた。
「あの晩のことですか。忘れませんよ。ドーンって音がして、窓から見たら人が倒れてて……」
嶋田が穏やかに聞き取りを進める。冴は隣で黙って記録を取っていた。三年前の調書にある証言と大きな齟齬はない。美咲が車道に飛び出す直前に何を見たか、車のスピード、方向、衝突の角度。
だが一つ、三年前の調書にない証言が出てきた。
「そういえば、あの晩、車が止まったでしょう。撥ねた車が急ブレーキかけて。その後すぐに、別の人が走って逃げていったんです」
冴のペンが止まった。
「別の人」
「ええ。車の向こう側から……暗くてよく見えなかったけど。背の高い人でした。黒いコートを着ていて」
「男ですか、女ですか」
橋本は首を傾げた。
「わからないです。背が高いから男かなと思ったんですけど……歩き方がね、なんだか女の人みたいな感じだった。すっすっと、音を立てないような歩き方」
「他に何か気づいたことは」
橋本はしばらく沈黙した。仏壇の線香が一筋の煙を天井に向けて伸ばしている。
「匂いがしたんです」
「匂い」
「甘い匂い。窓を開けた時に、風に乗ってきた。事故のあとって、タイヤの焦げた匂いとか血の匂いとかするでしょう。でもそれとは違って、すごく甘い……香水みたいな匂いでした」
冴と嶋田の目が合った。
「どんな香水か、わかりますか」
「さあ……高い香水の匂いだなとは思いました。私はそういうのは使わないから。でも、あんな場所であんな時間に、場違いな匂いでしたよ」
アパートを出た後、十二月の冷たい風が二人の頬を叩いた。冴はコートの襟を立て、三年前の交差点の方を見た。
「長身。黒いコート。甘い匂い」
嶋田が低い声で繰り返した。
「先生が刺された夜にも、香水の匂いがしたと言っていたな」
冴はうなずいた。ジャスミンとバニラ。あの甘い匂い。三年前の事故現場にも、同じ匂いがあった。
偶然ではない。
冴はそう確信し始めていた。




