検屍官の帰還
マンションのドアを開けた瞬間、暗がりの中から低い鳴き声がした。
「……夜」
黒猫が玄関の三和土に座って、冴を見上げていた。琥珀色の目が、暗がりの中で微かに光る。自動給餌器のおかげで食事は問題なかったはずだが、一週間以上も飼い主が帰らなかったことへの抗議なのか、夜は冴の足元に駆け寄ったかと思うと、すぐにくるりと背を向けた。
「怒ってるのか」
独り言が自然と漏れる。冴の癖だ。一人暮らしの部屋で猫に向かって喋ることが、冴にとっての精神の均衡だった。
靴を脱ぎ、コートを掛ける。十二月の冷気が染み込んだ部屋は、留守の間に温度を失っている。エアコンのスイッチを入れると、乾いた風が静かに吹き出した。
リビングに灯りをつける。ダークトーンの家具、最低限の調度品、壁一面の本棚。感情を表に出さない冴の性格を映したような、無機質な部屋。ただし本棚だけは生きている。法医学の専門書に混じって、有機化学のテキストや犯罪心理学の論文集が隙間なく詰まっていた。
ソファに腰を下ろすと、腹の傷が鈍く主張した。縫合部分が皮膚の下で引き攣れる感覚。冴は無意識に左手で傷の上を押さえた。
夜が戻ってきた。今度は抗議ではなく、そっと冴の膝に前足を乗せ、傷に触れないように慎重に丸くなる。猫の体温がジーンズ越しに伝わる。
「……ありがとう」
誰にも見せない声で、冴は呟いた。
テーブルの上に置いたままの七枚の写真が目に入る。退院時に持ち帰ったものだ。本来なら証拠品として警察に預けるべきだが、冴は嶋田にだけ見せて、手元に残した。
写真を裏返し、七人の顔を伏せる。しかし伏せたところで、記憶の中の彼らは消えない。藤原美咲の恐怖に歪んだ顔。柏木亮太が落下する瞬間の風切り音。園部真司の肺を満たした水の重み。食べた記憶は冴の中に層のように積み重なり、夢の中で不意に再生される。
眠れない夜は、もう何年も続いている。
キッチンに立ち、冷蔵庫を開けた。入院前から空だった棚に、賞味期限切れの牛乳パックだけが残っている。水道の蛇口をひねり、水を一杯飲んだ。冷たい水が喉を通り、胃に落ちる。その単純な感覚に、生きているという実感が宿る。
夜が足元にすり寄ってきた。冴は猫を抱き上げ、窓辺に立った。マンションの七階から見下ろす夜の街。遠くで救急車のサイレンが聞こえる。あの夜の自分を運んだのも、同じ音だったのだろう。
◇
翌朝。東都大学法医学教室。
ホルマリンとエタノールが混じった匂いが鼻を突く。他の人間には不快でしかないこの匂いが、冴には安堵を与えた。ここが自分の場所だという、身体に刻まれた記憶。
廊下の奥から、大柄な男が腕を組んで歩いてきた。黒田源蔵。法医学教室の主任教授。白髪交じりの短髪に、分厚い眼鏡の奥から覗く目は鋭い。
「朽木。まだ退院して三日だろう」
「検屍の予定が溜まっています」
「溜まっていようが、腹に穴が開いた人間を解剖台に立たせるわけにはいかん」
黒田は冴の前に立ちはだかるように足を止めた。
「休職を勧告する。少なくとも一ヶ月は療養に専念しろ」
「黒田教授。私は大丈夫です」
「大丈夫かどうかは俺が判断する。朽木、お前は前から気になっていた。解剖中の集中力が異常だ。遺体に触れてから、まるで何かを見ているような表情をすることがある」
冴の背筋が僅かに強張った。黒田がそこまで観察していたとは思わなかった。
「法医学者として、観察眼が鋭いだけです」
「そうか。ならいいが」
黒田は腕組みを解き、冴を真っ直ぐに見た。
「腕のいい法医学者を失うつもりはない。だから言っている。休め」
その声には、管理者としての命令と、どこかぎこちない心配が混じっていた。冴は小さく頭を下げた。
「一週間の自宅療養で、それ以降は復帰させてください」
「……二週間だ」
「十日で」
黒田は鼻を鳴らし、踵を返した。冴はその背中を見送ってから、法医学教室の奥――資料室へ向かった。
◇
資料室は地下一階にある。蛍光灯の光が青白く、棚には年度ごとに整理された検屍記録のファイルが並んでいる。デジタル化が進んでいるとはいえ、古い記録はまだ紙のまま残されていた。
冴が探しているのは三年前の記録。第一の事件――藤原美咲の検屍報告書。
ファイルを引き出し、机に広げる。埃が舞い、冴は反射的に息を止めた。
報告書は冴自身が書いたものだ。交通事故による外傷性ショック死。頭部打撲、肋骨骨折、肝臓裂傷。冴はその乾いた記述を指でなぞりながら、三年前に食べた記憶を思い出していた。
美咲は車に撥ねられたのではない。車内で首を絞められかけて逃げ出し、道路に飛び出したところを対向車に撥ねられた。だがその記憶は冴の中にだけあり、捜査記録には反映されていない。
報告書のページを繰っていくと、最後のページの裏にメモが一枚挟まれていた。
冴の手が止まった。
自分の筆跡だ。間違いない。右上がりの癖のある字。ペンの力加減まで自分のものだ。
だが、書いた記憶がない。
メモにはこう書かれていた。
「香水、ティエリー・M?」
冴は資料室の椅子に座ったまま、そのメモを見つめた。ティエリー・ミュグレー。あるいはティエリー・Mから始まる何か。記憶を食べた直後に、無意識に書き留めたのだろうか。食べた記憶の残響が手を動かし、自覚のないまま書かせた。
あの夜、裏路地で嗅いだ甘い香水。そして三年前にも、美咲の記憶の中で嗅いだ香り。
同じ匂いだったのか。冴は今になって、その可能性を初めて意識した。
スマートフォンが震えた。画面に「凛」の名前が表示される。冴は一拍置いてから通話ボタンを押した。
「お姉ちゃん。退院したって聞いたのに、なんで連絡くれないの」
凛の声は明るい。いつもの凛だ。二十七歳の出版社編集者。姉とは対照的に社交的で、感情が声の端々に溢れている。
「……すまない。バタバタしていて」
「バタバタって、刺されて入院してた人のセリフじゃないでしょ。ご飯は食べてるの。傷の消毒はちゃんとしてるの」
「している」
「嘘。お姉ちゃんが自分の体のこと気にするわけないじゃん」
冴は薄く笑った。凛にだけ見せる表情だった。
「大丈夫だ、凛。大した傷じゃない」
「大した傷じゃない人は心臓止まらないよ。……ねえ、お姉ちゃん」
凛の声のトーンが、僅かに変わった。
「最近、お姉ちゃんの周りに変な人いない?」
冴の指が、メモを握ったまま強張った。
「……どうして」
「なんとなく。勘。お姉ちゃんが刺されたって聞いてから、ずっと引っかかってるの。通り魔にしちゃあ不自然じゃない?」
凛の直感の鋭さに、冴は改めて驚く。能力を持たない凛の方が、時として冴より鋭く真実に近づく。
「気のせいだろう。犯人は通り魔だ。警察が捜査している」
「そう。ならいいけど」
凛の声は納得していなかった。だが姉がこれ以上話す気がないことを察したのか、話題を変えた。
「今度の週末、ご飯持ってくね。お姉ちゃんの冷蔵庫、入院前から空だったでしょ」
「……ああ」
電話を切った後、冴は資料室の椅子にもたれ、天井を見上げた。
メモの文字が視界の端でちらつく。自分の筆跡で、自分の記憶にない文字。
冴が食べた記憶は、冴の中で勝手に動き始めているのかもしれない。




