食べた記憶は還らない
コンビニのコーヒーの匂いが、消毒液に支配された病室に流れ込んだ。
「よう、朽木先生。まだ死んでなかったか」
嶋田耕一は見舞い客としては最悪の第一声で、病室のドアを開けた。くたびれたグレーのスーツ、日焼けした太い首、そして冴を見るなり眉間に深く刻まれた皺。片手にコンビニの紙袋、もう片手にコーヒーを二つ。
「……死にかけはした」
「四分の心停止だってな。大したもんだ。普通なら脳にダメージが残る」
嶋田はベッド脇のパイプ椅子にどかりと腰を下ろし、コーヒーの一つを冴のテーブルに置いた。蓋を開けると、安っぽいが温かい香りが立ち上る。冴はそれを両手で包んだ。指先が冷えている。十二月の病室は暖房が効いているはずなのに、腹の傷から体温が漏れ出しているような気がしていた。
「刺し傷を見せてもらった。担当医に頼み込んでな」
「嶋田さんに見せたがる医者がいるとは思えないが」
「まあ、いろいろあったんだ。で――ひとつ腑に落ちないことがある」
嶋田がコーヒーを一口飲み、冴の腹部を目で示した。
「殺す気があったにしちゃあ、中途半端だ。刃の角度が浅い。腹膜は切ってるが、腸管も大動脈も外してる。刺した人間は解剖学の知識があるか、あるいは意図的に急所を避けた。どっちだと思う」
冴は答えなかった。同じことを、自分でも考えていたからだ。
「殺意のない刺傷、ってのは矛盾だろ。普通はな。だが刺した相手が何か別の目的を持っていたなら――」
「別の目的」
「たとえば、先生の注意を引くとか。先生にしかわからない何かを渡すとか」
冴の視線がテーブルの隅に置かれたビニール袋に向かった。中の封筒。七枚の写真。嶋田はそれに気づき、眉を上げた。
「何だ、それ」
「搬送時に上着のポケットに入っていた。自分で入れた覚えはない」
冴は写真を一枚ずつテーブルに広げた。嶋田の顔から表情が消えた。刑事として現場を踏み続けた男の、仕事の顔だった。
「七人。全員が未解決事件の被害者だ」
「しかも全員、俺が関わった事件だ。朽木先生が――」
嶋田は言葉を切った。冴の能力のことを知っている数少ない人間の一人だ。
「先生が記憶を食べた相手ばかりだ」
沈黙が落ちた。コーヒーの湯気だけが細く揺れている。
「嶋田さん。七枚目を裏返してくれ」
嶋田が高梨昇の写真を裏返し、書かれた文字を読んだ。そしてゆっくりと顔を上げた。
「これは――」
「高梨昇の最期の言葉だ。私が食べた記憶の中で聞いた。誰にも話していない」
「つまり、刺した人間は先生が何を食べたか知っている」
冴はうなずいた。嶋田はしばらく写真を見つめてから、低い声で言った。
「大きな事件になるぞ、これは」
嶋田はコーヒーを飲み干し、紙コップを握り潰した。
「朽木先生。俺はこの仕事を二十年やってきた。人間がどれだけ残酷になれるかは、嫌というほど見てきたつもりだ」
言葉を切り、嶋田は窓の外に目を向けた。
「だが七人だ。七人を殺して、その全員の記憶を食べた人間にわざわざ写真を送りつける。これは快楽犯でも怨恨でもない。何かを伝えようとしている。先生に対して、だ」
「脅迫、だろうか」
「わからん。だが脅迫にしちゃあ、要求がない。手紙もメッセージもない。写真だけだ。それに――」
嶋田は冴の腹部を見た。
「殺す気があったなら、先生は今ここにいない。あの傷は、生かすための傷だ」
生かすための傷。その言葉が胸に残った。
◇
嶋田が帰った後、冴は消灯時間を過ぎてもベッドサイドのライトを消さなかった。
ノートを広げ、七つの事件を時系列で書き出す。
藤原美咲――三年前の十月。
柏木亮太――三年前の十二月。
園部真司――二年半前の五月。
関口義人――一年十ヶ月前の十二月。
水野遥――一年前の十一月。
仲村明日香――八ヶ月前の十二月。
高梨昇――五ヶ月前の一月。
七つの事件。十年ではなかった。並べ直してみると、全て直近三年以内に集中している。そのことに、冴は今さら気づいた。個別の事件として記憶を食べていたときには見えなかったパターンが、一覧にした途端に浮かび上がる。
窓の外に、都心のビル群の灯りがまたたいている。深夜の病院は静かだ。廊下を看護師の靴音が通り過ぎるたびに、ドアの下から細い光が差し込んでは消える。
ペンを走らせながら、冴は別の記憶に引きずり込まれた。
◇
十年前。
東都大学法医学教室。
当時二十二歳の冴は、修士課程の一年目だった。指導教官は御堂孝之教授。穏やかな老教授は、冴の才能を「観察眼が鋭い」という言葉で評していた。冴自身も、自分の能力を「才能」だとは思っていなかった。異常だと思っていた。
最初に記憶を食べたのは、司法解剖の実習だった。
身元不明の男性。推定六十代。死因は急性心不全。
解剖の手順に従い、胸腔を開く。心臓に触れた瞬間だった。
世界が反転した。
冴の視界が、自分のものではなくなった。見知らぬ部屋。畳の匂い。テレビの音声。そして胸を鷲掴みにされるような痛み。倒れる。天井が見える。畳の目が頬に押しつけられる。
痛みの中で、男は思っていた。
――仏壇の花を、替えなければ。
それが、冴が初めて食べた記憶だった。
死の直前三十分間。ただ一人で死んでいく男の、最後の三十分。
解剖台の脇で膝をつき、嘔吐した冴を、御堂教授が静かに支えた。冴が何を見たのかを聞き、御堂は長い沈黙の後にこう言った。
「冴くん。それは、君だけの目だ」
恐怖も嫌悪もなかった。ただ静かな受容。あの時の御堂の声を、冴は今でも覚えている。
だがその記憶の端に、今夜初めて気づいたものがある。御堂の目に浮かんでいた感情は、受容ではなかったかもしれない。
あれは――既知の顔だった。
初めて聞く話に対する驚きではなく、予想していたことが起きたときの、確認の表情。
あの日以来、冴は御堂の勧めで「非公式協力者」として警視庁の未解決事件に関わるようになった。遺体に触れ、記憶を食べ、得られた情報を嶋田に渡す。それを七年続けてきた。
記憶を食べるたびに、死者の最期の恐怖が冴の中に堆積していく。眠れない夜が増えた。他人の死の記憶がフラッシュバックとなって不意に蘇り、自分の記憶との境界が曖昧になる。
それでも、やめられなかった。
死者の声を聞けるのは自分だけだ。その声を届けなければ、彼らは永遠に沈黙したままだ。
それは敬意なのか。それとも、死者の最も私的な瞬間を覗き見る冒涜なのか。
冴は今もその答えを持っていない。ただ、食べた記憶は二度と元には戻せない。死者に返すこともできない。冴の中に残り続ける。
食べた記憶は、還らない。
冴はペンを止めた。
ノートの上に七つの事件が並んでいる。その下に、冴は各事件の間隔を月数で書き加えた。
第一から第二まで、二ヶ月。
第二から第三まで、五ヶ月。
第三から第四まで、七ヶ月。
第四から第五まで、十一ヶ月。
第五から第六まで、十三ヶ月。
第六から第七まで、五ヶ月。
二、五、七、十一、十三。
冴の手が止まった。
素数だ。
事件の間隔が、正確に素数月ごとに刻まれている。偶然で片付けられる数列ではない。五つ連続で素数が並ぶ確率は、天文学的に低い。
誰かが、この間隔を意図的に設計している。
消灯後の病室で、冴はノートを閉じた。ベッドサイドのライトを消すと、窓の外のビルの灯りだけが病室に青白い影を落とす。
腹の傷が、鈍く疼いた。




