白い天井、赤い記憶
刃が腹に入る瞬間、朽木冴が感じたのは痛みではなかった。
冷たさだ。
十二月の裏路地に似つかわしくない、金属特有の滑らかな冷たさが、皮膚を割り、筋膜を裂き、内臓の熱に触れて初めて灼けるように変わった。
声は出なかった。出す暇もなかった。暗がりの中、自分を刺した人間の顔を見上げようとしたが、街灯の逆光に輪郭が溶けている。フードの奥に、目だけが光っていた。
――甘い。
場違いな香りが鼻腔を満たした。ジャスミンとバニラ、そしてもうひとつ、名前のつかない甘さ。こんな路地裏に似つかわしくない、仕立てのいい香水の匂い。
犯人の手が刃を引き抜く。革手袋越しに、冴の腹部を押さえた指先が一瞬だけ触れた。
その刹那――。
何かが流れ込んだ。映像でも音でもない。意味を持つ前の、生々しい感覚の塊。誰かの記憶の残滓。しかし冴がそれを捉える前に、意識は足元から崩れ落ちた。
アスファルトに背中が打ちつけられる。腹部から広がる熱が、冬の夜気に奪われていく。視界の端で犯人の靴音が遠ざかる。
血染めの手を持ち上げると、指の隙間から赤黒い液体がこぼれた。
「――あ」
声にならない声だった。法医学者として何百もの遺体を開いてきた冴は、自分の出血量を正確に測れる。この量なら、あと数分。
自分が検屍する側の人間になるとは思わなかった。
視界が白く霞む。路地の奥から、誰かの足音が近づいてくるのが聞こえた。冴の意識は、そこで途切れた。
◇
ピ、ピ、ピ。
一定の間隔で刻まれる電子音が、暗闇の中で最初に戻ってきた音だった。
心電図のモニター音。冴はそれを瞬時に理解した。この音を、何度聞いてきただろう。解剖台の上に横たわる人間の傍で、記録装置が無感情に生命の消失を刻む音。それが今、自分の生存を刻んでいる。
意識が戻る過程は、水底から浮上するのに似ていた。まず音が、次に光が、最後に痛みが順番に感覚を取り戻す。
「血圧安定しました。心拍八十二」
看護師の声が遠くに聞こえた。白い天井が視界に広がっている。蛍光灯の光が目に刺さり、冴は反射的に瞼を閉じた。
「朽木さん、聞こえますか。朽木冴さん」
応えようとして、喉が乾ききっていることに気づく。舌が口蓋に張りついて、声の出し方を忘れたように動かない。
代わりに右手の指を動かした。心電図のクリップが中指に噛みついている。その小さな圧迫感が、自分がまだ生きていることの、奇妙なほど確かな証拠だった。
「意識レベル回復。先生を呼んでください」
白い天井。消毒液の匂い。点滴チューブの冷たさ。
そして腹部を覆う、鈍く脈打つ熱。
――私は刺されたのか。
記憶が断片的に蘇る。裏路地。刃物。甘い香水。フードの奥の目。革手袋越しに流れ込んだ、正体のわからない記憶の欠片。
冴は法医学者だ。死者の遺体に素手で触れ、その最期の記憶を「食べる」能力を持っている。正確には三十分。死の直前約三十分間の記憶が、鮮明な映像として冴の中に再生される。だがそれは常に死者の主観に歪められた、不完全な断片だった。
犯人の手が触れた瞬間、冴は生きた人間から何かを感じ取った。それは初めてのことだった。
「朽木さん。私は担当医の森川です。あなたは腹部刺創で搬送されました。心肺停止がありましたが、蘇生に成功しています」
心肺停止。つまり一度は死んだのだ。
冴は薄く目を開けた。
「……どのくらい」
ようやく絞り出した声は、自分のものとは思えないほど掠れていた。
「停止時間は約四分です。出血性ショックでしたが、発見が早かった。通報してくれた人がいなければ間に合わなかったでしょう」
四分。その四分間に、冴は何を見ていたのか。白い部屋の残像が脳裏をよぎったが、それが臨死体験の幻覚なのか、食べた記憶の残響なのか、今の冴には区別がつかなかった。
森川医師が何か説明を続けている。腹部の損傷、輸血量、今後の治療計画。冴はその言葉を聞きながら、別のことを考えていた。
刺された状況を、法医学者の目で再構成する。
刃の入った角度は浅い。致命的な臓器を外している。腹部大動脈にも腸管にも達していない。だが出血量は多かった。刃を引き抜いたとき、故意に傷口を広げた可能性がある。
殺すつもりなら、もっと的確な場所を刺せたはずだ。
殺すつもりがなかったのなら、なぜ刺した。
思考が回り始めると、痛みが遠退いた。これが冴の防衛機制だった。考えることで、感じることを遮断する。
「……通報者は」
「匿名の一一〇番通報です。現場の状況から、あなたが倒れてすぐに通報されたようですが」
犯人が通報したのか。あるいは犯人とは別の誰かが、初めから見ていたのか。
天井の蛍光灯が目に痛い。冴は右腕で目を覆い、暗闇の中で裏路地の光景を反芻した。フードの奥の目。あの目は、泣いていたように見えた。
しかしそれが事実なのか、出血による認知の歪みなのか、今の冴には判断できない。
死者の記憶を食べるとき、いつもそうだ。主観に歪められた記憶は、事実と感情の境界が曖昧になる。死者が見たものと、死者が見たかったものの区別がつかない。
今度は自分が、その曖昧さの中にいる。
◇
目が覚めてから二日後、冴はようやく上体を起こせるようになった。
ベッド脇のテーブルに、透明なビニール袋が置かれている。中に入っているのは血に汚れた封筒だ。看護師の説明では、搬送時に冴の上着の内ポケットに入っていたものだという。
冴は自分の上着にそんなものを入れた記憶がない。
ビニール袋越しに封筒を見つめた。角形六号。茶封筒。差出人の記載はない。血――冴自身の血だろう――が半分ほどを染めている。
手を伸ばした。点滴のチューブが引っ張られ、針の刺さった手の甲が痛む。
ビニール袋を開け、封筒を取り出す。乾いた血が指先にこびりつく感触。法医学者として何百回と触れてきた血液の手触りが、自分の血であるというだけで全く別の意味を帯びた。
封を切ると、中から写真が滑り出した。
七枚。
冴の指が止まった。
一枚目。若い女性の顔写真。藤原美咲。三年前、交通事故死として処理された二十三歳の女性。冴が記憶を食べた。
二枚目。柏木亮太。二十八歳。ビルからの転落死。自殺とされた。
三枚目。園部真司。製薬会社の研究員。河川での溺死。
四枚目。関口義人。元警察官の私立探偵。刺殺。
五枚目。水野遥。フリージャーナリスト。毒殺。
六枚目。仲村明日香。焼死。
七枚目。高梨昇。元新聞記者。絞殺。
七人。七つの未解決事件。すべて、冴が過去十年の間に遺体に触れ、記憶を食べた死者たちだった。
写真の並び順が気になった。時系列ではない。事件番号順でもない。何かの法則で並べられている。だが今の冴の頭では、その意味を読み取れなかった。
指が震えていた。腹部の傷ではなく、もっと深い場所が痛む。
七枚の写真を一枚ずつテーブルに並べ、冴はその顔を見つめた。すべて冴が食べた記憶の持ち主たち。死者の最期の恐怖も、悲しみも、冴の中に澱のように沈んでいる。
最後の一枚――高梨昇の写真を裏返した。
細い文字が書かれている。
冴の呼吸が止まった。
「――死にたくない。まだ書かなければならないことがある」
高梨昇の、最期の記憶の一節だった。
絞殺される直前、高梨の意識が最後に発した言葉。冴が食べた記憶の中で、高梨がそう叫んだのを、冴は覚えている。
だがこの言葉は、冴しか知らない。報告書にも書いていない。誰にも話していない。冴の頭の中にだけ存在する、死者の最期の声だ。
窓の外で救急車のサイレンが遠ざかっていく。
冴は七枚の写真を握りしめたまま、白い天井を見上げた。
自分を刺した人間は、冴の能力を知っている。冴が何を食べ、何を聞き、何を覚えているかを、正確に把握している。
狩る側から、狩られる側に。
死者の記憶が、冴自身を追いかけてきた。




