薫を守る盾――法医学者の矜持
薫の瞳に涙が浮かんでいた。だがその目は揺るがなかった。
研究室。冴が退院した翌日。薫の前に座った冴は、通信記録の中身を話した。薫が標的リストに名前があること。二週間前の日付で「保留」と記されていること。
「離れてくれ。この先は危険だ」
「断るわ」
薫の声は静かだった。涙を拭わないまま、真っ直ぐに冴を見ている。
「冴。三年前、私たちが別れた理由を覚えている?」
「覚えている」
「あなたがいつも何かを隠していた。壁があった。何を聞いても答えない。私の前だけ、別の人間になる。それが嫌だった」
冴は答えなかった。
「あの壁の正体がやっと分かったの。能力のこと。記憶を食べること。全部。冴、あなたが隠してきたものが分かった今、私が離れると思う?」
「お前の安全の問題だ」
「安全なら、三年前に離れた時点で終わっているわ。私の名前は標的リストにも技術顧問候補リストにもある。離れたところで消えない」
薫が実験台に両手をついた。俯いて、息を吸った。顔を上げた。目が赤い。
「冴。あなたの能力を、法廷で証明する方法がある」
冴は息を呑んだ。
「検察立ち会いの実証実験。冴が事前に一切関わっていない遺体の記憶を読んで、まだ判明していない事実を語る。それが後日の捜査で事実と確認されれば、能力の証明になる」
「法的根拠が――」
「先例はない。でも科学的検証の手法としては成立する。二重盲検に近い構造を作れる。私は法医学者よ。実験プロトコルなら書ける」
薫がホワイトボードに向かった。マーカーを取り、実験の設計を書き始めた。遺体の選定条件。立会人の構成。記録方法。検証のタイムライン。
冴は薫の背中を見ていた。白衣の肩が微かに震えている。怖いのだ。冴と同じように。だが手は止まらない。
「薫」
「何」
「能力のこと。全部話す」
薫の手が止まった。振り返った。
冴は話した。初めて完全に。
幼少期の実験のこと。記憶を食べるということの実際。感覚的にどう体験するのか。蓄積の代償。睡眠障害と解離症状。鈴音の記憶を食べたこと。七人分の死が頭の中にあること。
薫は黙って聞いていた。途中で実験台の上に座った。白衣のポケットに手を入れた。マーカーのキャップを指で弄っている。
「触れた瞬間に記憶が流れ込む、と」
「ああ」
「遺体の温度や保存状態は影響する?」
「する。新しいほど鮮明だ。組織標本からも読めるが、断片的になる」
「認知的なバイアスは。自分の知識や期待が記憶の解釈に影響する可能性は」
「ある。死者の主観に歪められることもある。恐怖で犯人の顔が怪物に見えることがあった」
薫が頷いた。科学者の顔になっていた。驚きも恐怖もある。だがそれ以上に、未知の現象を前にした研究者の目が光っている。
「冴。あなたの能力は科学的に解明されていないけど、検証は可能よ。結果が再現可能で、事前情報なしの条件で有意な情報が取れるなら、法的にも意味を持つ」
「法廷で通用するか」
「分からない。先例がないから。でも御堂先生の証言と組み合わせれば、能力の科学的基盤を補強できる。通信記録と再鑑定報告書は物的証拠。冴の証言は状況証拠。実証実験はその橋渡し」
◇
薫は分析装置の前に座り、園部の肺水分析の最終結果を画面に表示した。
二つの波形が重なっている。園部の肺水の塩化物イオン組成と、東栄製薬旧研究施設の特殊洗浄プールの水質データ。
「完全一致。誤差〇・三パーセント以内。園部さんは施設内で溺死させられた。法医学的に証明可能よ」
冴はモニターを見つめた。波形の重なりが、真実の形をしていた。
「これで第三の事件の犯行現場が特定される。施設への出入り記録と通信記録を合わせれば、神崎の関与を間接的に証明できる」
薫が冴を見た。
「冴。私は法医学者としてこの事件に関わっている。科学的事実の前では嘘がつけない。それは法医学の基本原理。死者の身体は嘘をつかない。あなたの能力と同じよ」
冴は薫の目を見た。涙の跡がまだ残っている。だが目は澄んでいた。
「薫。三年前の壁は――」
「もうないわ」
薫の手が冴の手に触れた。温かい指。生きている温度。
「冴。あなたの能力を、法廷で証明する方法がある。私がプロトコルを書く。検察との調整は御堂先生に任せる。あなたは準備だけしていて」
研究室は静かだった。分析装置のファンの音だけが低く回っている。二人の呼吸が重なった。
冴は頷いた。
そのとき、薫の携帯が鳴った。御堂からだった。薫が出て、すぐに顔色が変わった。
「冴。御堂先生が検察に接触したことが、神崎に漏れた。今朝、御堂先生の自宅に不審者が侵入した痕跡があるって」




