記憶の洪水――七人分の死を背負う
冴は鈴音の手を握り直した。
冷たい。骨と皮だけの指。シルバーのブレスレットが手首で揺れている。蛍光灯の光が白いタイルに反射して、二人の影が壁に伸びていた。
「本当にいいのか」
「お願い。冴ちゃんしかいない」
鈴音が微笑んだ。壊れた微笑みではなかった。穏やかだった。覚悟を決めた人間の顔。
冴は目を閉じた。
握った手に意識を集中した。皮膚と皮膚の境界が溶けていく。鈴音の体温の奥に、何かがある。膨大な何かが。壁一枚の向こうで渦を巻いている。
壁が崩れた。
記憶が流れ込んできた。
最初は美咲。
車の中。暗い。甘い香水の匂いが充満している。自分の両手が美咲の首に巻きついている。細い首。指の下で脈が跳ねている。美咲の目が見開かれている。恐怖。純粋な恐怖。手が震える。力が入らない。美咲が暴れて、ドアを蹴り開けて、車から飛び出す。道路に出た。ヘッドライトが迫る。
衝撃音。
そして静寂。アスファルトの上に横たわる美咲。動かない。自分の手を見る。震えている。喉の奥からこみ上げるもの。嘔吐。
最初の殺人だった。
二番目。柏木。
ビルの屋上。風が強い。夜景が広がっている。柏木が振り返る。「誰だ」。フードを下ろさない。「君も見えているんだろう? 死者の顔が」。柏木の顔色が変わる。後ずさり。フェンスに背中がぶつかる。「待って」と言おうとした。言えなかった。柏木の身体がフェンスを越えた。落下。
叫び声は聞こえなかった。風の音だけ。
三番目。園部。
缶コーヒーに鎮静剤を入れた。園部が飲む。三分で意識を失う。USBメモリを彼が差し出そうとしていた。相手は自分だった。園部は味方だった。それでも殺した。神崎の命令で。
意識のない園部を水槽に沈めた。東栄製薬の地下。特殊洗浄プールの水が園部の顔を覆った。泡が浮かんで、消えた。
「あなたの記憶は、残るから」
自分の声が聞こえた。鈴音の声。死者に向けた弔いの言葉。
四番目。関口。
刃物を握る手。関口は元刑事だ。反撃してきた。腕を掴まれた。振りほどいて、刺した。腹部。斜め上に刃を入れた。関口の目が見開かれた。関口は冴と同じ傷を受けた。同じ刃の角度。同じ手の癖。
「お前は、被験者02か」
関口の最期の言葉。正解だった。
五番目。水野。
御堂の研究室で追い返された後の水野を追った。ジャーナリスト。諦めない人だった。薬を飲ませた。水野は倒れる前に「告発しますよ。あなたの分も」と言った。
六番目。仲村。
鎮静スプレー。意識を失った仲村をベッドに寝かせた。手を組ませた。葬儀の姿勢。火をつけた。部屋の中で泣いた。仲村のクラウドデータのことは知っていた。神崎に報告しなかった。報告しないことで、仲村の意志を生かそうとした。
七番目。高梨。
「告発する側に回れ」と高梨が言った。鈴音にそう言ってくれた最初で最後の人間だった。泣きながら絞めた。記憶の干渉が不完全になった。高梨の記憶に鈴音の泣き顔が残った。
それでよかった。顔を残したかった。誰かに見てほしかった。泣いていたことを。
七人分の死が一度に流れ込んだ。
冴の身体が震えた。歯が鳴っている。心臓が暴れている。視界が歪む。白い部屋が赤く染まり、黒く染まり、また白くなった。
だがそれだけではなかった。
七人の死の記憶の底に、鈴音自身の記憶がある。十七年分の孤独。白い部屋。注射。電極。マンションの一人暮らし。窓の外を眺める夜。誰とも話さない日。神崎からの電話。穏やかな声。「次の対象」。
殺した夜の眠れない闇。七人の顔が天井に浮かぶ。美咲の恐怖。柏木の絶叫。園部の泡。関口の血。水野の決意。仲村の静けさ。高梨の許し。
全部が冴の中に注ぎ込まれた。
鈴音の二十五年。孤独と苦痛と罪悪感。それから――冴への想い。白い部屋で手を繋いだ五歳の記憶。冴がいなくなった朝の泣き声。二十五年間、冴のことを考え続けた夜。
冴の鼻から血が流れた。耳の奥で高い音が鳴っている。手帳を掴んだ。無意識に。ペンを取った。手が勝手に動いた。日付。場所。時刻。神崎の指示の記録。鈴音の記憶の中にあった情報が、冴の手を通じて手帳に刻まれていく。
そして冴の意識が砕けた。
白い部屋が崩れた。タイルが剥がれ、蛍光灯が消え、暗闇が冴を包んだ。最後に見えたのは鈴音の顔だった。泣いていた。笑っていた。
「ありがとう。冴ちゃん」
声が遠ざかる。冴の身体が崩れ落ちた。鈴音が冴の頭を支え、自分の膝に載せた。痩せた指で冴の髪を撫でた。
もう片方の手で、携帯を取った。薫の番号を呼び出した。
「桐生さん。東栄製薬の旧研究施設。地下一階。冴ちゃんが倒れた。すぐに来て」
電話を切り、鈴音は冴の顔を見下ろした。安らかな顔だった。苦しんでいるが、安らかだった。記憶を受け取った者の顔。
「こわいね」
鈴音が囁いた。白い部屋の中で。二十五年前と同じ言葉。
蛍光灯が点滅して、消えた。
◇
心電図のモニター音が規則的に鳴っている。
病室の白い天井。刺された夜と同じ白さ。冴は目を開けた。
身体が重い。頭の中が混沌としている。七人分の死の残像がちらつく。美咲の恐怖。柏木の落下。園部の泡。全部が冴の中にある。
「冴」
声。薫の声。震えている。
冴は首を動かした。薫が椅子に座っていた。目が赤い。泣いていた痕がある。
「三日間、意識がなかった」
「三日」
「脳波が安定するまで時間がかかったの。医者は原因不明だと言っている。私は理由を知っている」
冴は天井を見た。白い天井。鈴音の記憶が頭の中で渦を巻いている。七つの殺人。十七年の孤独。手紙に書かれなかった三人の死。
「鈴音は」
薫の表情が変わった。目を伏せた。
「冴。鈴音さんは――」
薫の声が詰まった。
「あなたが意識を失った翌朝、病院で亡くなったわ。私が施設に駆けつけたとき、鈴音さんがあなたを膝に載せて抱えていた。二人とも血まみれだった。鈴音さんは衰弱していて、病院に運んだけど」
冴の視界が滲んだ。
「最期に何か言っていたか」
「一つだけ。『冴ちゃんに渡せた』と。穏やかな顔だった」
冴は天井を見つめた。白い天井が揺れている。七人の記憶と鈴音の記憶が、冴の中で混ざり合っている。
手元に手帳があった。冴が無意識に書き殴った日時と場所の羅列。鈴音の記憶から流れ出た神崎の犯罪の記録。震える手で手帳を開いた。自分の筆跡。読める。全部読める。
鈴音が遺したもの。二十五年分の記憶と、一冊の手帳。それが冴に託された全てだった。
「薫」
「うん」
「泣いていいか」
薫が冴の手を取った。温かい手。生きている手。
冴は泣いた。




