裏切りの通報――包囲網の綻び
嶋田のバッジがデスクに置かれた。硬い金属音が捜査一課のフロアに響いた。
周囲の刑事たちが一瞬だけ嶋田を見て、すぐに視線を逸らした。見なかったことにする。そういう空気が、フロア全体を覆っていた。
「嶋田さん。総務部から内部調査の通知です」
若い職員が書類を差し出した。嶋田は受け取り、一読した。「非公式捜査への関与の疑い」。間違いではない。実際にやっている。
「バッジと拳銃を」
嶋田は胸ポケットからバッジを出した。もう片方の手で腰のホルスターから拳銃を外した。二つをデスクの上に置いた。バッジの表面に蛍光灯の光が反射している。二十三年間、肌身離さず持ち歩いてきたものだ。
安西が廊下で待っていた。
「嶋田さん」
「騒ぐな。想定内だ」
「橋本副署長です。間違いありません。昨夜、私たちの会議の内容が神崎室長に伝わっています。リークのタイミングからして橋本以外あり得ない」
嶋田は壁に背をつけた。廊下の蛍光灯が白く光っている。
「橋本は俺が声をかけた。俺の判断ミスだ」
「嶋田さんのせいじゃ――」
「いい。安西、ここから先はお前が動け。俺は内部調査中は身動きが取れねえ。USBは持ってるな」
「はい。三箇所にバックアップ済みです」
「賢い女だ」
嶋田は安西の肩を一度だけ叩き、エレベーターに向かった。振り返らなかった。
◇
冴の研究室に黒田教授が現れたのは、その日の午後だった。
ドアをノックする音が、研究室のホルマリンの匂いの中に響いた。この匂いは冴にとって日常そのものだ。毎朝嗅いで、毎晩帰る。だが今日はこの匂いを嗅ぐのが最後になるかもしれない、という予感が喉の奥に張りついていた。
「朽木くん」
黒田の声はいつもより低かった。
「座ってくれるか」
冴は座った。黒田が向かいの椅子に腰を下ろした。眼鏡を外し、目頭を指で押さえた。疲れている。冴のために疲れている。
「上から正式な通達が来た。特命捜査対策室を通じて、文部科学省経由で大学に。君の身分についての照会だ」
「照会」
「要するに、大学として君の活動を容認しているのかという問い合わせだ。私は保留と回答した。だが――」
黒田が冴を見た。
「朽木くん。大学としては、これ以上君を擁護する立場にない。二日前に約束した猶予も、今日で切れる」
冴は何も言わなかった。黒田の机の上に冴の業績ファイルがあった。厚い束。十年分の論文、学会発表、検屍報告の実績。冴がこの教室に積み上げてきたものの厚みだった。
「休職を強く勧める。自主的な形であれば、復帰の道は残せる。しかし――」
「分かりました」
「朽木くん」
「教授。お気持ちは分かっています。ありがとうございます」
黒田が息をついた。眼鏡をかけ直し、立ち上がった。ドアに手をかけて、振り返った。
「君が何者であっても、この教室の法医学者であることに変わりはない。それは前にも言った。変わっていない」
ドアが閉まった。
冴は椅子に座ったまま、研究室を見回した。顕微鏡。標本棚。デスクの上に積まれた検屍記録。ここが冴の居場所だった。十年間。
ホルマリンの匂いが、急に遠く感じた。
◇
自宅に戻ると、夜が膝に乗ってきた。
黒い猫。冴の唯一の同居人。冴が椅子に座ると、夜は膝の上で丸くなり、喉を鳴らし始めた。温かい。この温もりが冴を現実に繋ぎとめている。
携帯が震えた。非通知。
冴は出なかった。
三十秒後、メールが届いた。暗号化されたメッセージ。復号すると、短い文章が現れた。
「時間がない。会いたい。場所は前と同じ。明日の午前二時」
発信元の痕跡を安西に確認する時間はなかった。だが分かる。鈴音だ。
前回は施設で会い、神崎に踏み込まれた。同じ場所。同じ危険。だが鈴音は「時間がない」と書いている。鈴音の身体は限界に近い。咳に血が混じっていた。あの白い部屋で手を繋いだ冷たい指。
冴は携帯を置き、夜の背中を撫でた。猫は目を細めて甘えた声を出した。
薫の言葉が蘇った。「一人で行かないで」。嶋田は内部調査中で動けない。安西は証拠の管理で手が離せない。薫は標的リストに名前がある。
一人で行くしかない。
冴は立ち上がった。夜が不満そうに鳴いた。キャットフードの皿を多めに満たし、水を替えた。
クローゼットからダウンジャケットを引き出した。ポケットに携帯と鈴音の手紙を入れた。二日前と同じ服装。同じ覚悟。
玄関を出る前に、猫を振り返った。夜は餌を食べている。尻尾が揺れている。
冴はドアを閉めた。
◇
深夜の東栄製薬旧研究施設。二度目の訪問。
フェンスの切れ目は前回のまま残っていた。建物の裏手の非常口も開いている。廊下の埃に新しい足跡が一組だけ。鈴音のものだ。
階段を下り、地下の白い部屋の前に立った。ドアを開けた。
鈴音が椅子に座っていた。
前回より明らかに弱っていた。車椅子が傍に置かれている。自力で歩けるかどうか怪しい。手首のシルバーのブレスレットが蛍光灯の光を鈍く返していた。
「冴ちゃん」
声が掠れている。前回よりもさらに。
「来た」
「ありがとう」
鈴音が微笑んだ。唇の端がひび割れている。だが目だけが生きている。冴と同じ色の瞳。
「前回は途中で邪魔が入った。今日は――」
鈴音が咳き込んだ。口元を押さえた手に赤いものが滲んだ。
「大丈夫。今日は最後まで話せる。時間がないから、全部話す」
冴は鈴音の隣に座った。冷たいタイルの椅子。白い部屋の中で二人きり。二十五年ぶりの長い夜が始まろうとしていた。




