紛失検体――消された証拠の行方
保管庫の扉を開けると、冷蔵装置の低い唸り音が薫を包んだ。ホルマリンと消毒液の匂いが鼻の奥を刺す。
薫は棚を順に確認していった。七つの事件の検体を全て集め、再鑑定の最終報告書を仕上げる。それが今の薫の仕事だった。
第一の事件、藤原美咲。組織標本。ある。第二、柏木亮太。血液付着コンクリート片。ある。第三、園部真司。肺水標本。ある。第四、関口義人。血液サンプル。ある。
第五の事件。水野遥。
薫の指が止まった。
棚番号は合っている。ラベルも残っている。だが検体がない。空のケースだけが、蛍光灯の下で白く光っていた。
管理台帳を引き出した。水野遥の血液検体、保管記録。最終アクセス日は八ヶ月前。処理区分に「紛失」の赤いスタンプが押されている。
紛失。毒殺事件の血液検体が紛失。
薫の指が台帳の紙をなぞった。紙の表面は黄ばんでいて、古い書類特有のざらつきがある。署名欄に目を移した。最後に検体に触れた人物のサイン。
見覚えのない名前だった。だが筆跡に既視感がある。
◇
嶋田の自宅は板橋区の古いマンションの三階だった。
書斎の壁に人物関係図が貼られている。赤ペンで消された名前がいくつかある。裏切りの可能性がある人間。残った名前は多くない。
嶋田は安西と向き合い、リストを精査していた。
「特命対策室の外で、神崎に疑念を持っている人間。捜査一課に二人、監察に一人、公安に一人」
安西が画面を見せた。
「この四人の身辺は確認済みです。借金や弱みを握られている形跡はありません。ただ――」
「ただ、何だ」
「捜査二課の橋本副署長。嶋田さんがリストに入れたがっていた人ですが、最近神崎室長と個人的な会食をしています。三回」
嶋田の表情が固くなった。壁の関係図に手を伸ばし、橋本の名前に赤ペンで線を引いた。
「四人で行く。それ以上は増やさねえ」
「了解です」
「安西。お前、家族に何か説明してるか」
「独身です」
「そうか」
嶋田が窓の外を見た。向かいのマンションの灯りが見える。妻と娘が待つ部屋。
「俺には娘がいる。高校生だ。この前、学校に不審な電話があった。神崎の威嚇だ」
「嶋田さん」
「だからやめるって話じゃねえ。逆だ」
嶋田は安西を真っ直ぐ見た。
「俺が動かなきゃ、娘の世代にもこういう奴がのさばり続ける。それは嫌だ」
◇
御堂の自宅は世田谷の住宅街にあった。古い一軒家。書斎の壁には額入りの集合写真が掛かっている。
冴はその写真の前に立った。二十五年前の写真。白衣を着た若い御堂。その隣に、銀縁眼鏡をかけた若い神崎。二人は笑っている。まだ共犯者になる前の、学者と官僚の顔だった。
「冴くん」
御堂が茶を差し出した。手が微かに震えている。茶碗の中で茶が波打っていた。
「検察の結城には、来週中に接触する。彼は厳しい男だ。だが公正でもある。証拠を見せれば動く」
「先生が公の場で証言すれば、経歴は終わります」
「とっくに終わっているよ。二十五年前に終わっていた。ただ認めていなかっただけだ」
御堂が写真を見上げた。
「鈴音のことが一番辛い。あの子を救い出せなかった。冴くんを連れ出すとき、鈴音が泣いていた。『置いていかないで』と」
冴の腹部の傷が疼いた。鈴音の声が頭の中で反響する。こわいね。
「先生。鈴音はまだ生きています。記憶を渡すと言っている」
「そうか」
御堂が目を閉じた。皺の深い顔に、涙がひと筋流れた。
「間に合うといいね」
◇
薫は深夜の研究室で台帳と格闘していた。
紛失検体の保管記録を遡っている。最後に検体に触れた人物の署名。名前は「田所信也」。この名前は保管庫のアクセス権限者リストに載っていない。外部からの持ち出しだ。
筆跡をスキャンし、画像解析にかけた。特徴的な「信」の崩し方。「義」に似た旁の書き癖。
薫の手が止まった。
関口義人。第四の被害者。元刑事の私立探偵。
関口の手帳のコピーが手元にあった。冴から共有されたものだ。手帳の文字と、台帳の署名を並べた。
筆圧の強い直線的な文字。「の」の丸め方。「る」の跳ね。
酷似していた。完全な一致ではない。だが元の筆跡を模倣した者の書き癖が、偽造を示している。
誰かが関口の筆跡を真似て、水野の検体を持ち出した。
故人の筆跡で偽署名を作れる人間。警察の証拠管理に出入りできる人間。検体の価値を理解し、それを消す必要があった人間。
神崎の組織的な証拠隠滅。水野の毒殺に使われた薬物の血液検体を消し去ることで、東栄製薬との繋がりを断ち切ろうとした。
だが薫には園部の肺水がある。東栄製薬の施設との一致を証明した再鑑定報告書がある。一つの検体を消しても、網は破れない。
薫は携帯を取り、冴に電話した。午前一時。
「冴。水野さんの血液検体が紛失扱いになっていた。署名欄に偽署名がある。関口さんの筆跡を模倣したもの」
「関口の筆跡か」
「故人の名前で偽造する。生きている人間なら照合されるから、死者の名前を使った。神崎の部下の仕事でしょうね」
冴の沈黙。
「薫。それも証拠になる」
「ええ。偽署名そのものが、証拠隠滅の証拠よ。報告書に追記するわ」
電話を切った。指先が紙の上で震えていた。冴に似てきた、と薫は思った。




