集結――最後の作戦会議
テーブルの上に紙の山が積まれていた。
薫の大学病院・法医学研究室。午後七時。窓の外はとうに暗い。長テーブルの上に、再鑑定報告書、通信記録の復号データ、被験者名簿の解析結果が隙間なく並んでいる。紙の束に指先を触れると、インクとコピー用紙の乾いた感触の向こうに、二ヶ月間の捜査の重みがあった。
冴は椅子に座り、コーヒーカップを手に取った。陶器の温もりが指先に移る。
二日前の夜のことが蘇った。白い部屋。鈴音の冷たい手。車のエンジン音。
あの夜、鈴音が冴の手を離した。「裏口から出て」と囁いた。冴が抗うと鈴音は首を振った。「記憶は必ず渡す。でも今日じゃない」。建物の裏手から脱出し、闇の中を走った。鈴音がその後どうなったかは分からない。
コーヒーの苦味が喉を焼いた。
「よう」
嶋田が入ってきた。スーツはいつも通りくたびれている。だがその目に疲れはなかった。後ろに安西真帆。ノートパソコンを胸に抱えている。
御堂孝之が最後に入室した。杖をついていた。以前より背中が丸くなっている。冴と目が合うと、静かに頷いた。
五人。冴、嶋田、安西、薫、御堂。
一堂に会するのは初めてだった。これまではそれぞれが別々に動いてきた。冴は記憶を食べ、嶋田は警察の内側を掘り、安西はデジタルの海を探り、薫は検体を分析し、御堂は沈黙を破った。別々の糸。今夜、それを一本に撚り合わせる。
「始めよう」
冴が言った。
◇
薫がホワイトボードの前に立ち、赤いマーカーで七つの事件名を書き出した。藤原美咲。柏木亮太。園部真司。関口義人。水野遥。仲村明日香。高梨昇。七つの名前を線で結んでいく。マーカーが白板を走る音が、静かな研究室に響いた。
「全体像を確認します。七つの事件の共通点は三つ。第一に、全被害者が鏡花プロジェクトの秘密に触れた人物。第二に、犯行には東栄製薬の薬品または施設が使われている。第三に、殺害指示は全て神崎怜司から出ている」
安西がノートパソコンを開いた。
「鈴音さんから受け取った暗号化ファイル、復号はほぼ完了しています。神崎室長と鈴音さんの通信記録です。日付、時刻、殺害対象の指定から事後処理の指示まで、全部残っています」
「証拠は揃ってきてる」
嶋田が腕を組んだ。
「問題はどこに持ち込むかだ。警察内部は信用できねえ。神崎は特命対策室の室長だぞ。正面から行ったら握り潰される」
「検察です」
御堂の声は静かだった。全員が振り向いた。
「旧知の検察官がいる。東京地検の副部長だった男だ。鏡花プロジェクトの時代から私を疑っていた男でもある。彼になら持ち込める」
冴は御堂の横顔を見た。六十二歳の恩師。目に贖罪の光が灯っている。
「先生。証言台に立つ覚悟は」
「冴くん。二十五年遅い。だが、やるよ」
ホワイトボードの相関図が埋まっていった。安西が管理する通信記録は複数箇所にバックアップ済み。薫の再鑑定報告書は物理コピーで保全。嶋田が持ち出した封印文書と、御堂のマニラ封筒の内部資料。鈴音の手紙。鈴音の手書きの告白。
パズルのピースが嵌まっていく。冴の胸の奥で何かが動いた。一人ではない。初めてだった。五人分の覚悟が、この部屋に集まっている。
「役割を決めよう。安西は通信記録の最終整理と検察への提出準備。薫は再鑑定報告書の体系化。嶋田は警察内部の協力者の確保。御堂先生は検察官への接触。私は鈴音の記憶の整理だ」
嶋田のUSBメモリが安西の手に渡された。神崎の不正支出を記録した物的証拠。安西の指がUSBメモリを握り締めた。
「朽木先生。これ、絶対に無駄にしません」
◇
会議が二時間を超えた頃だった。
安西のスマートフォンが鳴った。着信音が廊下に響き、五人が凍りついた。
安西が席を立ち、廊下に出た。一分もかからなかった。戻ってきた安西の顔は青白い。
「朽木先生。神崎室長が動きました」
蛍光灯の低い唸りだけが残った。
「精神鑑定の申請が出ています。朽木先生に対する強制精神鑑定。捜査協力者として不適格の疑い、という名目です」
嶋田が舌打ちした。
「手が早えな。いつだ」
「今日の午前です。鑑定医の名前も確認しました」
安西が冴を見た。
「杉浦洋介。神崎室長の大学時代の同期です」
沈黙。冴の腹の底が冷えていく。能力のことを証言すれば「妄想」と断じられる。精神鑑定を受ければ、証言能力そのものが否定される。どれだけ証拠を積み上げても、証言者が「精神異常者」なら全てが崩れる。
「朽木先生」
嶋田の声が低くなった。核心を突くときの声だ。
「精神鑑定が通れば、全部終わりだ」
「分かっている」
冴は椅子から立ち上がった。
「少し外に出る」
◇
屋上に出た。三月の夜風が頬を叩いた。
刺された傷跡が疼く。寒さのせいではない。鈴音の記憶が流れ込みかけたあの瞬間の痛みが、まだ腹の奥に残っている。
眼下に夜の街が広がっていた。無数の灯り。その一つ一つに人がいて、生きて、いずれ死ぬ。死者の声は誰にも聞こえない。冴以外には。
能力を隠し続けてきた。三十二年間。それが自分を守る方法だと信じてきた。だが今、隠すことそのものが敵の武器になっている。神崎は冴の秘密を知っている。その上で、秘密を楯にして冴を潰しにかかっている。
屋上のフェンスに手をかけた。金属が冷たい。
柏木亮太。あの男もビルの屋上から落ちた。鈴音に追い詰められて。その記憶が冴の中にある。フェンスを越える瞬間の浮遊感。落下する空。
七人分の死。そして鈴音の二十五年分の苦痛。冴が背負うべきものの総量。
死者は嘘をつかない。
なら自分も嘘をつくのをやめるべきだ。
能力を公にする。世界に晒す。精神異常者と呼ばれるかもしれない。化け物と呼ばれるかもしれない。それでも、この手の中にある記憶は本物だ。
夜風が強くなった。冴は屋上の扉を開け、階下に戻った。研究室のドアを開けると、四人が冴を待っていた。
「一つ、提案がある」
四つの視線が冴に集まった。
「能力を証明する。公の場で。精神鑑定の前に」
嶋田が眉を寄せた。安西が息を呑んだ。御堂が目を閉じた。
薫だけが、静かに頷いた。




