こわいね
午前一時。冴はマンションを出た。
黒いダウンジャケットにジーンズ。ポケットに携帯と鈴音の手紙。他には何も持たなかった。
薫には場所だけ伝えてある。安西には施設の住所を送った。「午前四時までに連絡がなければ、警察に通報してくれ」と。一人で行くと決めた。鈴音が求めているのは冴だけだ。
タクシーで品川まで行き、そこからレンタカーを借りた。深夜の首都高を西に走った。
東栄製薬の旧研究施設は、多摩地区の工業団地の外れにあった。十五年前に閉鎖されて以来、建物は放置されている。周囲は雑草に覆われ、フェンスは錆びていた。
午前二時四十分。フェンスの一部が切られていた。人一人が通れる隙間。冴は身を屈めてくぐった。
建物の裏手に回ると、非常口が開いていた。鈴音が用意したのだろう。冴は懐中電灯を点けて中に入った。
廊下は埃に覆われていた。天井の蛍光灯は死んでいる。懐中電灯の光が壁を這う。かつてはこの廊下を白衣の研究者たちが行き来していた。二十五年前、幼い冴と鈴音がここにいた。
足音が反響する。自分のものだけだ。
階段を下りた。地下一階。記憶の中の白い部屋は地下にあった。フラッシュバックの映像と、今自分が歩いている廊下が重なる。
突き当たりにドアがあった。厚い金属製。かつて無菌室だった部屋。ドアハンドルに手をかけた。冷たい。
開けた。
白い部屋だった。
天井、壁、床。すべて白いタイルで覆われている。埃は積もっているが、白さは失われていない。蛍光灯のうち一本だけが生きていて、かすかに点滅しながら部屋を照らしていた。
フラッシュバックの白い部屋。そのものだった。
部屋の奥に、椅子が一つ置かれている。椅子に、人が座っていた。
鈴音だった。
冴は足を止めた。呼吸を忘れた。
鈴音は一ヶ月前に自宅で見たときよりもさらに痩せていた。黒い服の下の身体は骨と皮だけに見えた。髪に白いものが目立つ。手首のシルバーのブレスレットだけが鈍く光っている。
鈴音が顔を上げた。
「冴ちゃん」
声が掠れていた。唇が割れ、頬がこけている。だが目だけが生きていた。暗い部屋の中で、冴と同じ色の瞳が光を放っている。
「来てくれた」
「来た」
冴は部屋に入った。足音がタイルに反響する。鈴音の前に立った。かつてこの部屋で、二つのベッドが並んでいた。幼い二人が手を繋いでいた。
「座って」
鈴音が隣の椅子を示した。冴が座った。二人が並んだ。二十五年ぶりに。
「ここだった」
鈴音が部屋を見回した。
「ベッドはあそこと、あそこ。機械はあの壁際に。窓はなかった。いつも白い光だけ」
「覚えている。少しだけ」
「冴ちゃんは記憶を消されたから。でも私は全部覚えてる。毎日注射されて、頭に電極をつけられて、死んだ人の記憶を食べさせられた。五歳の私に。冴ちゃんが泣くと、私が手を繋いだ。私が泣くと、冴ちゃんが手を繋いでくれた」
鈴音の目から涙がこぼれた。拭わなかった。
「ある日、冴ちゃんがいなくなった。御堂先生が冴ちゃんを連れて行った。私はここに残された。神崎が来て、『これからは僕が君の面倒を見るよ』と言った。穏やかな声で」
冴の拳が膝の上で白くなった。
「二十五年。その間ずっと、冴ちゃんのことを考えていた。冴ちゃんは外で生きている。普通に学校に行って、大学に入って、法医学者になって。私はここで――」
鈴音が言葉を切った。
「冴ちゃん。全部渡したい。私の中にある記憶の全部を。七人のこと。神崎のこと。二十五年間のこと。私が見たもの、聞いたもの、感じたもの。全部」
「鈴音。記憶を渡したら、お前はどうなる」
鈴音が微笑んだ。壊れた微笑みだった。
「分からない。でもたぶん、楽になれると思う」
「死ぬかもしれない」
「もう死んでるのと同じだよ。二十五年間、白い部屋の中にいたまま。身体だけが外を歩いていた」
冴は鈴音の手を見た。細い指。シルバーのブレスレット。手首の内側に古い傷跡が何本も走っている。
「鈴音。別の方法を探す。生きたまま記憶を分かち合う方法が――」
「ない。冴ちゃんも分かってるでしょう。能力者の記憶は、死の瞬間にしか完全には読めない。生きている人間の記憶は断片しか渡せない。あの夜、刃を通じて渡そうとしたけど、不完全だった」
「なら――」
「冴ちゃん」
鈴音が冴の手を取った。冷たい手。骨が浮き出ている。
「私が死んだら、すぐに食べて。まだ温かいうちに。そうすれば三十分じゃなくて、もっと深い記憶を読めるはず。冴ちゃんの能力と私の能力が重なれば」
「そんなことはさせない」
「お願い。これが最後の――」
鈴音が咳き込んだ。口元を押さえた手に、赤いものが滲んだ。
「鈴音」
「大丈夫。もう慣れた」
鈴音が手を拭い、再び冴の手を握った。
「冴ちゃん。覚えてる? あの日もこうやって手を繋いだ。注射の前。二人とも怖くて。私が言ったの」
「こわいね」
冴が呟いた。鈴音が頷いた。涙が頬を伝っている。
「こわいね。でも、冴ちゃんがいるから大丈夫」
冴の目から涙が落ちた。止められなかった。鈴音の手を握り返した。骨と皮だけの手。それでも温かかった。まだ生きている温度があった。
「鈴音。まだ方法は――」
鈴音が冴の額に自分の額を合わせた。二人の呼吸が重なった。鈴音の手から、微かに記憶が流れ込んでくる。能力者同士の接触。断片的な映像。白い部屋で笑う五歳の鈴音。
記憶の転移が始まりかけた。
その瞬間。
外から音が聞こえた。
車のエンジン音。一台ではない。複数。建物の外に停車している。ドアが開く音。足音。
鈴音の身体が強張った。
「来た」
冴が立ち上がった。
「神崎か」
「たぶん。私がここに来ることは、知られていたのかもしれない」
足音が近づいてくる。階段を下りてくる音。複数の人間。
鈴音が冴の手を離さなかった。
「冴ちゃん」
白い部屋の中で、二人は手を繋いだまま立っていた。蛍光灯が点滅している。足音が近づいてくる。
二十五年前と同じだ。白い部屋。恐怖。そして隣にいる、同じ目を持つもう一人。
「こわいね」
鈴音が囁いた。
冴は鈴音の手を強く握った。
「大丈夫。今度は、私が守る」
ドアの向こうで、足音が止まった。




