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死者の記憶を食べる検屍官、自分を殺した犯人を追ううちに七つの未解決事件の真相に辿り着く  作者: ぽんぽこライフ


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香水の名前

 薫は大学病院の研究室で、園部真司の肺水の最終分析結果をまとめていた。


 塩化物イオンの組成比較。荒川の河川水とは一致しなかった。海水とも違う。だが東栄製薬の旧研究施設内にあった特殊洗浄プールの水質データと照合したとき、グラフの線が重なった。


 薫は椅子の背にもたれた。


 園部真司は荒川で溺死したのではなかった。東栄製薬の旧研究施設の中で溺れさせられ、その後に荒川に運ばれて遺棄された。犯行現場は施設の内部だ。


 施設は十五年前に閉鎖され、現在は使用されていないことになっている。だが犯行当時、犯人は施設に出入りできた。つまり鈴音は施設の鍵を持っていたか、出入りを許可されていた。


 薫は電話を取り、冴に報告した。


「塩化物イオンの組成が東栄製薬旧研究施設の特殊洗浄液と一致したわ。園部さんは施設内で溺死させられた後、荒川に運ばれた。犯行現場は鏡花プロジェクトが行われた施設そのもの」


「施設が犯行現場か」


「ええ。そして冴。明後日の夜、あなたが行こうとしている場所と同じよ」


 沈黙。


「分かっている」


「もう一つ。香水の調合師リストの追跡が完了したの」


 薫は自分のノートを開いた。香料専門家が特定したカスタムブレンドのジャスミン・バニラ・ムスク・アルデヒドの調合。特注の一点物。調合師リストは八名に絞り込まれていた。安西の協力でそのうち三名の顧客リストを入手し、残りの五名のうち一名が一致した。


「銀座の調合師、柏原千恵子さん。十二年前に一件だけ、このブレンドの注文を受けている。注文者の名前は高宮鈴音。香水に名前をつけてほしいと頼まれたそうよ」


「名前」


「『鏡花』。注文者が自分でつけた名前。調合師は由来を聞かなかったけど、客が静かな女性で、とても痩せていたことを覚えていた」


 冴の呼吸が聞こえた。


「鈴音は自分の香水にプロジェクトの名前をつけた」


「そう。自分を縛り続けた計画の名前を、自分の匂いにした。全ての犯行現場に残した。証拠を残す気がなかったのではなく、署名していたのよ。『鏡花がやった』と」


「鏡花計画が自分を作り、自分が鏡花を名乗る」


「皮肉ではないと思う。鈴音さんにとって、鏡花は自分のアイデンティティそのもの。他に何も持っていなかったから」


 薫の声が僅かに震えた。


「冴。明後日の夜のこと。一人で行かないで」


「薫」


「聞いて。あなたが行かなければならないのは分かっている。鈴音さんがあなたにしか会えないことも。でも外に誰か待機させて。嶋田さんは無理でも、安西さんか、私が――」


「薫。お前は標的リストに名前がある。施設に近づくのは危険だ」


「技術顧問候補リストにも名前があったわ。安西さんから聞いた。私は神崎にとって使い道のある人間なの。だから逆に、殺されはしない。利用価値がある限り」


 冴は何も言わなかった。


「冴。あなたが壊れたら、誰が鈴音さんの記憶を受け取るの。誰が七人の声を届けるの。一人で全部やろうとしないで」


「……考える」


 電話を切った。


 薫は受話器を置いて、自分の手を見た。指先が震えている。冴に似てきた。


 再鑑定報告書の束を整理した。第一から第七まで、全ての事件の法医学的再鑑定。物理コピーを紙で出力し、検体データをUSBメモリに落とした。紙の束をファイルに綴じ、大学の貸金庫に預ける手配をした。


 デジタルは消せる。でも紙は消せない。



  ◇



 冴は法医学教室の廊下を歩いていた。


 研究室のドアに手をかけたとき、背後から声がかかった。


「朽木くん」


 振り返った。黒田源蔵教授が廊下の奥に立っていた。白衣の襟が少し乱れている。普段は端正な身なりの人だ。何かを長く悩んだ後のような顔をしていた。


「教授」


「少し時間をもらえるかな」


 黒田の研究室に入った。教授がドアを閉めた。


「君の最近の行動について、聞かなければならないことがある」


 冴は正面から黒田を見た。


「標本室への深夜のアクセスが複数回記録されている。保管庫からの検体取り出し。通常の研究活動では説明できない」


「教授には以前、私の能力のことをお話ししました」


「ああ。覚えている。その上で聞いている。君は個人的な調査のために、大学の設備と検体を使っているのか」


 冴は答えに詰まった。否定はできない。


「答えられないということか」


「……はい」


 黒田が息をついた。椅子に座り、眼鏡を外して目頭を押さえた。


「上から問い合わせが来ている。特命捜査対策室の神崎という人物から。君の標本室へのアクセスログの提出を求められた」


 冴の腹が冷えた。


「私は保留にしている。だが、いつまでも引き延ばせない。大学としての立場がある」


「教授。あと少しだけ時間をください」


「何のための時間だ」


「全てが終わったら、説明します」


 黒田が冴を見た。老いた目に、疲れと、それでも消えない信頼がある。


「私は君の味方だと言った。それは変わっていない。だが、味方であり続けるためには、君が何をしているのか知る必要がある」


「分かっています。あと少しだけ」


 黒田が頷いた。


「二日。二日だけ待つ。それ以上はアクセスログを提出せざるを得ない」


 二日。明後日の夜が期限だ。東栄製薬の旧研究施設。午前三時。


 冴は黒田の研究室を出た。廊下の蛍光灯が白く光っている。


 すべてが明後日に収束する。

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