鈴音の手紙
研究室のドアの下に、白い封筒が差し込まれていた。
冴は朝七時に教室に来ていた。まだ誰もいない。廊下は静かで、非常灯だけが薄い光を投げかけている。
封筒を拾い上げた。表に何も書かれていない。裏返すと、小さな文字で日時と場所が記されていた。
「三月三十日、午前三時。鏡花の始まった場所で」
三月三十日は明後日だ。鏡花の始まった場所――東栄製薬の旧研究施設。
冴は封筒を開けた。中に便箋が五枚。手書きだった。細くて几帳面な文字。ところどころ震えている。インクが滲んでいる箇所がある。涙の跡のようだった。
冴は椅子に座り、読み始めた。
冴ちゃんへ。
この手紙を書くのに三日かかりました。何度も書き直しました。うまく書けないのは、二十五年間ほとんど誰とも話していないからです。
全部書きます。
最初の事件。藤原美咲さん。十年前。神崎から電話がありました。「東栄製薬のインターンが被験者データに触れた。対処しろ」と。対処が何を意味するか、分かっていました。
美咲さんを三日間尾行しました。二十三歳の女の子でした。友達と笑って、カフェでケーキを食べて、普通に生きていた。
車の中で首を絞めました。でも途中で手が震えて、絞めきれなかった。美咲さんが暴れて車から飛び出して、道に出たところで別の車に撥ねられました。私のせいです。
二番目。柏木亮太さん。東栄製薬のシステム保守でサーバーのデータを見つけた人。屋上に呼び出して、言葉で追い詰めました。「君も見えているんだろう? 死者の顔が」と言ったら、彼は怯えて後ずさりして、フェンスを越えて落ちました。私は押していません。でも殺したのは私です。
三番目。園部真司さん。この人には鎮静剤を使いました。苦しまないように。彼がUSBメモリを渡そうとしていた相手は、実は私でした。園部さんは私が被験者02だと気づいていて、データを託そうとしてくれた。でも神崎が先に命令を出した。
四番目。関口義人さん。元刑事で、鏡花プロジェクトの調査を進めていた。「能力者は二人いる」と突き止めていた。この人は私の正体に一番近づいた。だから神崎が焦った。
五番目。水野遥さん。ジャーナリストで、鏡花計画の取材をしていた。御堂先生に会った後で殺しました。御堂先生が追い返したのに、水野さんは諦めなかった。強い人だった。
六番目。仲村明日香さん。東栄製薬でデータを持ち出そうとした人。意識を奪ってからベッドに寝かせて、手を組ませて、火をつけました。彼女の部屋で泣きました。仲村さんのデータがクラウドに残っていることは知っていました。神崎には報告しませんでした。
七番目。高梨昇さん。関口さんの調査を引き継いだ作家。この人は私に「告発する側に回れ」と言ってくれた。私にそう言ってくれた人は高梨さんだけでした。殺す前に泣いてしまって、記憶の操作が不完全になりました。
七人。全員の名前を覚えています。全員の顔を覚えています。
神崎は電話一本で指示を出します。穏やかな声で。怒ることもない。「次の対象」と言うだけ。私が断ったことは一度もありません。断れば、冴ちゃんが危険になると言われていたから。
でも本当は、断る力がなかっただけかもしれません。
冴ちゃん。あなたに会いたかった。二十五年間ずっと。白い部屋で手を繋いだあの日から、ずっとあなたのことを考えていました。あなただけが、私と同じ目を持っている。あなただけが、私の記憶を正しく受け取れる。
あの夜、あなたを刺したのは、記憶を渡すためでした。刃を通じて、私の記憶をあなたの中に入れようとしました。刺すしか方法がなかった。生きている人間の記憶は食べられないから。ごめんなさい。
もう身体が限界です。能力の暴走が止まらなくなってきて、頭の中で死者の声がずっと聞こえています。七人の声。全員が私を呼んでいます。
明後日、午前三時。鏡花の始まった場所で待っています。あの白い部屋で。今度こそ、全部渡します。
こわいね。でも、冴ちゃんがいるなら大丈夫。
高宮鈴音
冴は便箋を膝の上に置いた。手が震えている。視界が滲んでいた。
文字を見つめた。細くて几帳面な筆跡。冴はデスクの引き出しを開け、第一の事件の検屍記録に挟まれていた追記メモを取り出した。「香水、ティエリー・M?」と書かれたメモ。冴の筆跡だと思っていた。
並べた。
便箋の文字と追記メモの文字。「か」の書き方。「う」の払い。「ま」の角度。
一致した。
追記メモは冴が書いたものではなかった。鈴音が書いたものだった。鈴音が冴の検屍記録にメモを挟んだ。冴が調査を始めるよう仕向けるために。最初から、鈴音は冴を導こうとしていた。
冴は便箋を封筒に戻した。封筒の裏の文字をもう一度読んだ。
「三月三十日、午前三時。鏡花の始まった場所で」
東栄製薬の旧研究施設。放棄された白い無菌室。すべてが始まった場所。
冴は携帯を取り出した。薫に電話をかけた。
「薫。鈴音から手紙が来た。明後日の午前三時、東栄製薬の旧研究施設で会うと」
「一人で行くつもり?」
「行くしかない」
「冴。一人で行かないで」
冴は窓の外を見た。朝の光が研究室に差し込んでいる。
「考えさせてくれ」
電話を切った。便箋の最後の一行が目に焼きついている。
「こわいね。でも、冴ちゃんがいるなら大丈夫」
二十五年前、白い部屋で隣のベッドの少女が囁いた言葉と、同じだった。




