握り潰される証拠
安西真帆は午前三時にモニターのアラートで目が覚めた。
ノートパソコンの画面が赤く点滅している。外部からのアクセス検知。仲村のクラウドストレージに保存されていた暗号化ファイルに対して、リモートからの削除コマンドが実行されていた。
「嘘でしょう」
安西は跳ね起きてキーボードに飛びついた。削除の進捗が三十二パーセント。「被験者データ」フォルダが既に消えていた。「内部メモ」が消去中。
安西の指が走った。アクセス元のIPを追跡する。VPN経由で三重にマスキングされているが、最初のホップが警視庁の内部ネットワークだった。
「中から来てる」
削除は止められない。クラウド側のアクセス権限が管理者レベルで上書きされている。仲村のアカウントの管理権限を誰かが奪取した。
だがデータは安西の手元にもある。USBメモリと外付けハードディスクと、もう一つ。安西が最初にダウンロードした時点で、三箇所にバックアップを取っていた。
クラウド上のデータが完全に消去された。進捗が百パーセントになり、フォルダが空になった。
安西は椅子の背にもたれた。冷や汗が背中を伝っている。
間一髪だった。もし安西がバックアップを取っていなければ、仲村が命をかけて残した四百メガバイトの証拠は消滅していた。
問題は、誰がやったかだ。
クラウドの管理者権限を奪取するには、仲村のアカウント情報が必要だ。安西がアクセスしたときのログが監視され、同じ方法で侵入された可能性がある。あるいは、安西の動きそのものが筒抜けになっていた。
安西は冴に電話をかけた。午前三時だが、冴は一コールで出た。
「安西さん。どうした」
「仲村のクラウドデータが遠隔で消去されました。全部消えました。でもバックアップがあるので、データ自体は無事です」
「消去のアクセス元は」
「警視庁の内部ネットワークです。神崎の協力者が庁内にいます。少なくとも一人、IT部門にアクセスできる人間が」
沈黙が数秒あった。
「安西さん。バックアップは安全な場所にあるか」
「物理メディアで三箇所に分散しています。一つは自宅。一つは実家の金庫。もう一つは貸金庫です。デジタルの場所には置いていません」
「いい判断だ」
「ただ、もう一つ問題が」
安西は画面を見た。消去されたデータの中に、安西がまだ精査していなかったフォルダがあった。「技術顧問候補」というフォルダだ。消去される前にフォルダ名だけは確認できていた。
「消去されたデータの中に『技術顧問候補』というフォルダがありました。中身は確認できていません。でもバックアップにはあるはずです」
「確認してくれ」
安西はUSBメモリを挿した。バックアップデータを展開する。「技術顧問候補」フォルダを開いた。
中には一枚のスプレッドシートがあった。名前のリスト。五名。
安西の指が止まった。
「朽木先生。リストに桐生薫さんの名前があります」
「何のリストだ」
「標的リストとは別です。こちらは『技術顧問候補リスト』。鏡花プロジェクトの後継計画に、技術顧問として招聘する候補者のリストです。日付はわずか二年前。つまり神崎は、プロジェクトの再始動を計画していた」
冴の息が止まった音が聞こえた。
「薫は標的であると同時に、神崎が利用しようとしていた人間でもあるのか」
「そういうことです。桐生さんの法医学的知見を、能力者の身体管理に応用しようとしていた可能性があります。母親が看護師だったことも含めて、桐生さんは鏡花プロジェクトにとって『使える人材』だった」
安西は画面を閉じた。
「朽木先生。物的証拠の安全確保が最優先です。デジタルデータは消去される可能性がある。桐生さんに連絡して、法医学的証拠の物理コピーを確保してもらえませんか。再鑑定報告書、検体データ、すべて紙と物理メディアで」
「すぐに連絡する」
冴が電話を切った。
安西はパソコンの前で深呼吸した。画面の光が目に痛い。
神崎は証拠を握り潰しにかかっている。クラウドを消し、嶋田を休職に追い込み、安西の動きを監視している。だが全ては消せない。紙は遠隔で消去できない。検体は物理的に存在する。人間の記憶は削除できない。
安西はUSBメモリを握りしめた。仲村が残した保険。高宮鈴音の名前がパスワードだった保険。この小さな金属片の中に、二十五年間の犯罪の記録が眠っている。
嶋田にもメッセージを送った。嶋田の携帯が生きているかどうか分からないが。
「データの遠隔消去を受けました。バックアップは無事。庁内に神崎の協力者がいます。嶋田さん、気をつけて。あなたの休職も、この流れの一部です」
送信。
既読はつかなかった。
安西は窓のカーテンを開けた。東の空が薄く白み始めていた。長い夜が明けようとしている。だが戦いはまだ終わっていない。




