あの夜の真実
冴は自室のベッドに横たわり、天井を見つめていた。
胸の傷痕に指を当てる。刃が入った場所。鈴音がつけた傷。すべての始まりだった。
あの夜のことを思い出そうとしていた。裏路地。腹部の痛み。薄れゆく意識。血染めの封筒。七枚の写真。
だが記憶の一部が欠けている。刺された瞬間から救急搬送されるまでの数分間。その間に何が起きたのか。
冴は目を閉じた。
能力は他者の記憶を食べるものだ。だが臨死状態に陥ったとき、自分の記憶にアクセスできる可能性はないか。あるいは、その瞬間に他者から転移された記憶が、自分の中に残っているのではないか。
鈴音の声が蘇る。「あの日刺してごめんなさい。でもあれしか方法がなかった」。
方法。何の方法だ。
冴は深く息を吸い、意識を沈めた。フラッシュバックを意図的に誘発する技術は、ここ数週間で身につけた。危険だが、今は使うしかない。
闇の底に沈む。身体の感覚が遠ざかる。心拍が遅くなる。
◇
裏路地。冬の夜。
冴は自分の記憶の中にいた。
足音が近づいてくる。振り向く。黒いフード。甘い匂い。鏡花の香り。
ここまでは覚えている。だが、その先がある。
鈴音が右手に持っていたのは小さなナイフだった。刃渡り十センチほどの折りたたみ式。殺傷能力は低い。プロの道具ではない。
鈴音が刺した。腹部。浅い。致命傷を避ける角度。
痛みが走った。だが、痛みの奥に別の感覚があった。
流れ込んでくる。
刃が皮膚を貫通した瞬間、鈴音の手から何かが移ってきた。記憶だ。鈴音の記憶が、刃を通じて冴の中に流れ込もうとしている。
これが目的だった。
鈴音は冴を殺そうとしたのではない。刃を媒介にして、自分の記憶を冴に転移しようとした。通常、記憶を食べるには遺体に触れなければならない。だが鈴音はもう一人の能力者だ。能力の応用として、刃という物理的接触を通じて記憶を押し込むことを試みた。
記憶が洪水のように押し寄せた。断片的な映像。
白い部屋。幼い鈴音が泣いている。注射器。御堂の顔。
暗い部屋。成長した鈴音が電話を受けている。神崎の声。「次の対象を伝える」。
夜の街。鈴音がフードを被り、誰かの後をつけている。手が震えている。
病院のような場所。鈴音が拘束衣の中で叫んでいる。能力が暴走している。見えない死者の記憶が無数に流れ込み、鈴音の意識を侵食している。
神崎のオフィス。デスクの向こうに神崎が座っている。穏やかな声。
「次は誰を消す?」
鈴音の目から涙が流れている。
「……はい」
映像が途切れた。
冴の臨死状態が転移を中断した。心肺停止。記憶の流入が不完全なまま止まった。鈴音が冴に渡そうとした二十五年分の記憶は、断片だけが冴の中に散らばった。
あれがフラッシュバックの正体だった。
冴がこの数週間で経験してきた不意の映像、白い部屋、鈴音の声、神崎のオフィス。あれは冴自身の記憶ではなく、鈴音から不完全に転移された記憶の断片だった。
冴は記憶の底から浮上した。
目を開けた。天井が見える。呼吸が荒い。汗が全身を濡らしている。鼻血が流れていた。
ベッドの上で身体を起こした。両手を見る。震えている。
鈴音は二十五年間の記録を冴に渡そうとした。神崎に命じられた七つの殺人。殺す前の恐怖。殺した後の崩壊。能力の暴走。拘束。投薬。そしてまた命令。その繰り返しの二十五年間。
刺すことでしか記憶を渡せなかった。鈴音は生きている。生きている人間の記憶は食べられない。だから刃を媒介にした。冴を殺す気はなかった。致命傷を避けて浅く刺し、接触時間を確保して記憶を押し込んだ。
だが冴が臨死状態に陥ったことで、転移は中断した。
「あれしか方法がなかった」
鈴音の言葉の意味が、ようやく分かった。
冴は立ち上がった。洗面所で鼻血を洗い流し、顔を拭いた。鏡の中の自分の顔が蒼白だった。目の下の隈。痩せた頬。凛の言う通り、壊れかけている。
だが止まれない。
携帯を取り出した。薫にメッセージを送った。
「あの夜の記憶にアクセスした。鈴音は刃を媒介にして記憶を転移しようとしていた。殺意はなかった。刺傷は記憶の転移のための接触手段。臨死で転移が不完全に終わった。フラッシュバックの正体は鈴音の記憶の断片だった」
薫からの返信がすぐ来た。
「能力者同士の記憶転移。前例はないけど、理論的には可能かもしれない。刃という物理的媒介が神経系への直接刺激として機能した可能性。法医学的に浅い刺傷だったことと一致する」
冴は窓の外を見た。
不完全に転移された鈴音の記憶が、冴の中でまだ脈打っている。断片的な映像。神崎のオフィスで「次は誰を消す?」と尋ねる穏やかな声。鈴音の涙。
鈴音は二十五年分の全てを冴に渡したい。完全な形で。それが鈴音の望みだ。
だがそれは、鈴音が冴に触れなければならないことを意味する。生きている鈴音の記憶を、生きている冴が食べる方法を見つけなければならない。
あるいは鈴音が死を覚悟しているのか。
冴はその考えを振り払った。まだだ。まだ方法はあるはずだ。
デスクの上の七枚の写真が、暗い部屋の中で白く光っていた。




