追跡と救出
タクシーが渋谷に着くまでの十五分間、冴は七回凛に電話をかけた。すべて不通だった。
道玄坂で降りて走った。位置情報のピンは少し動いていた。路地の方へ。冴は人混みをかき分け、裏通りに入った。居酒屋のネオンが赤く滲んでいる。生ゴミの匂いと焼き鳥の煙。
ピンが止まっている場所に着いた。雑居ビルの裏手、飲食店の搬入口の陰。
凛がそこにいた。
壁に背をつけて、しゃがみ込んでいた。コートの襟を両手で掴んで、震えている。顔は蒼白で、目が大きく見開かれていた。
「凛」
冴が駆け寄った。凛が顔を上げた。冴を見た瞬間、目から涙がこぼれた。
「お姉ちゃん」
冴は凛の前にしゃがんだ。額に手を当てる。冷たい。体温が下がっている。
「怪我は」
「ない。でも――」
凛の声が途切れた。唇が震えてうまく話せない。
冴は自分のマフラーを外して凛の首に巻いた。
「落ち着いて。深呼吸して。吸って。吐いて」
凛が冴の指示に従って呼吸を整えた。一分ほどかかった。
「何があった」
「カフェで元社員の人と話してた。鏡花プロジェクトの資金の流れ。内閣府の予算が東栄製薬を経由して特命対策室に還流してたって。それで録音してたの。そしたら」
凛が唾を飲み込んだ。
「店を出たところで、後ろから声をかけられた。振り向いたら、黒いフードの女の人が立ってた」
冴の心臓が跳ねた。
「何を言われた」
「『これ以上調べないで』って。静かな声。怒ってる感じじゃなくて、むしろ心配してるみたいな。それから『あなたのお姉さんに伝えて。もう時間がない。急いで』と」
「それだけか」
「うん。そのまま歩いて行った。追いかけようとしたけど足が動かなかった。金縛りみたいに。しばらくしたら動けるようになって、逃げてここまで来た」
冴は凛の肩を握った。
「スマートフォンは」
凛がポケットから出した。画面が真っ暗だった。
「通話中に突然落ちた。電池はあったのに。今は普通に動く」
能力による電子機器への干渉か。あるいは偶然か。冴には判断がつかなかった。
「凛。尾行された?」
「分からない。でも、あの人は最初からカフェの近くにいたと思う。出た瞬間に声をかけてきたから」
冴は凛を立たせた。自分のコートの中に引き寄せるようにして、表通りに出た。人混みの中を歩きながら、周囲を確認する。不審な人影は見えない。
タクシーを拾い、凛の自宅のマンションに向かった。
車内で凛は冴の腕にしがみついていた。震えが止まらない。
「お姉ちゃん」
「うん」
「あの人、怖かった。でも、悪い人じゃない気がした。目が悲しかった」
冴は何も言えなかった。
「ねえ。あの人が、鈴音さん?」
冴は窓の外を見た。渋谷の街灯が流れていく。
「……そうだと思う」
◇
凛のマンションに着いた。部屋に入り、暖房をつけ、温かいお茶を淹れた。凛がソファに座り、毛布に包まった。
「もう一人で動くな」
「分かってる。でも、あの元社員の人が教えてくれた情報は重要だよ。鏡花プロジェクトの予算が東栄製薬を経由して特命対策室に流れていた。資金の環流を証明できれば、神崎の不正を立証できる」
「それは安西さんに任せる。凛は二度と単独行動をしないでくれ」
凛が頷いた。お茶を飲む手がまだ震えている。
「お姉ちゃんが壊れそう」
冴は動きを止めた。
「最近のお姉ちゃん、目の下の隈がひどい。ご飯も食べてないでしょう。夜も眠れてないでしょう。フラッシュバックも増えてるでしょう」
「大丈夫だ」
「嘘。大丈夫じゃないのは分かる。私はお姉ちゃんの妹だから」
凛がカップをテーブルに置いた。冴の手を取った。
「お姉ちゃん。全部一人で背負わないで。嶋田さんも安西さんも薫さんもいる。私もいる。一人で壊れないで」
冴は凛の手を握り返した。妹の手は細くて温かかった。
「壊れない」
「約束して」
「約束する」
凛を落ち着かせて、マンションを出た。
外は暗くなっていた。冬の夜の空気が肺を刺す。冴は駅に向かって歩き始めた。
三つ目の街灯を過ぎたとき、足が止まった。
四つ目の街灯の下に、人影があった。
黒いフード。細い体。街灯の光が足元だけを照らしている。逃げない。ただ立っている。冴を見ている。
冴は動かなかった。相手も動かなかった。
十メートルほどの距離。冬の夜気の中で、微かに甘い匂いが漂ってきた。ジャスミンとバニラ。
「鈴音」
冴の声が白い息になって消えた。
フードの人物が小さく頷いた。
「妹さんに手を出してごめんなさい。でも、止めないと危なかった。神崎が凛さんの動きを把握している。あの元社員の周辺は監視されていた」
「お前が凛を守ったのか」
「脅かしたのよ。守ったんじゃない」
鈴音の声が震えていた。フードの奥の顔は見えない。
「冴ちゃん。時間がない。私の身体がもう限界に近い。次に能力が暴走したら、たぶん戻れない」
「なら今すぐ保護する。薫のところでも、御堂先生のところでも」
「無理。神崎の目がある。今の私には、あなたに会いに来るので精一杯」
鈴音が一歩下がった。街灯の光から外れ、闇に溶けていく。
「研究室のドアの下に、手紙を入れておく。全部書いた。七つの事件のこと。神崎のこと。私のこと。読んで」
「待て」
「また来る。もう少しだけ、時間をちょうだい」
闇の中で足音が遠ざかった。鏡花の残り香だけが、冬の空気に長く漂っていた。
冴は街灯の下に一人残された。自分の白い息を見つめた。
鈴音の声が耳に残っている。「もう限界に近い」。事件の間隔が短くなっている。制御が崩壊している。身体が壊れかけている。
時間がない。
冴は拳を握りしめて、歩き始めた。




