道具と人形
御堂の自宅は小金井の住宅街にあった。築四十年の二階建て。庭の柿の木が枯れ枝を冬空に伸ばしている。
冴がインターホンを押すと、御堂がすぐに出た。白髪が前回より増えていた。目の下の隈が深い。
「冴くん。来ると思っていた」
冴は無言で紙の束を差し出した。安西がプリントアウトした仲村の暗号化ファイルの一部。被験者処遇報告書と監督官通信のコピーだ。
御堂は玄関先でそれを受け取り、最初のページを見た瞬間、顔が歪んだ。
「……中に入りなさい」
◇
居間の卓袱台に書類が広げられた。お茶を出す余裕もなく、御堂は書類を一枚一枚読んでいた。手が震えている。
「これは仲村という女性が残したものだ」
「はい。東栄製薬の臨床試験部門にいた人です。被験者データを持ち出そうとして、殺されました。でもクラウドにバックアップを残していた」
「パスワードが鈴音の名前だった、か」
御堂が書類を置いた。眼鏡を外し、目頭を押さえた。
「先生。プロジェクト終了後のことを聞かせてください。この通信記録には、先生と神崎のやり取りが残っている。神崎は鈴音の処遇について、先生に報告を続けていた」
「……ああ。そうだ」
御堂の声は掠れていた。
「プロジェクトが中止になったとき、私は二つの選択を迫られた。冴くんと鈴音の処遇だ。冴くんは記憶を処理すれば社会復帰が可能だった。安定していたからね。お母さんに返すことができた」
「鈴音は」
「鈴音は孤児だった。施設から連れてきた子だ。帰る場所がなかった。それに、能力が制御不能になっていた。社会に戻せる状態ではなかった。私は――」
御堂が言葉を切った。窓の外を見ている。柿の枯れ枝が風に揺れていた。
「私は神崎と取引をした。冴くんを安全に社会復帰させる代わりに、鈴音のことは神崎に任せると。神崎は鈴音の『治療と管理』を約束した。私はそれを信じた。信じたかったんだ」
「信じていなかったのでは」
御堂が冴を見た。老いた目に、隠しきれない痛みがあった。
「……分かっていた。神崎は最初から鈴音を道具にするつもりだった。適切な管理下で特殊任務に応用可能、という文言は私も読んだ。だが私は冴くんを守ることを優先した。一人を救うために、もう一人を見捨てた」
「それから二十二年」
「二十二年間、私は神崎から定期報告を受け取り続けた。最初は鈴音の治療経過だった。三年後から、報告の内容が変わった。『運用状況報告』になった。何に運用されているかは書かれていなかった。だが分かっていた。分からないふりをした」
冴の腹の底が冷えた。
「七つの事件が起きるたびに、先生は気づいていたのか」
「……第三の事件あたりからだ。園部真司が溺死したとき。園部は東栄製薬の研究員だった。鏡花プロジェクトの周辺データに触れた人間が死んだ。偶然ではないと思った」
「思っただけで、何もしなかった」
御堂が顔を覆った。
「そうだ。何もしなかった。冴くんの安全が守られている限り、私は目をつぶった。神崎との取引だ。冴くんに手を出さない代わりに、私は黙る。その取引を二十二年間守った」
冴は立ち上がった。怒りが胸を焼いている。だが同時に、御堂の震える手を見て、別の感情も湧いていた。この老人もまた、白い部屋の呪縛から逃れられていない。
「先生」
「何だね」
「鈴音は先生のことを恨んでいると思いますか」
御堂が顔を上げた。涙が頬を伝っている。
「恨んでいてほしいよ。恨まれるだけのことをした」
冴は何も言えなかった。
そのとき、携帯が鳴った。凛からだった。
「お姉ちゃん。今、東栄製薬の元社員の人と会ってて――」
「凛。一人で動くなと言っただろう」
「大丈夫、カフェで話してるだけ。でね、この人が鏡花プロジェクトの資金の流れについて知ってて――」
凛の声が途切れた。
「凛?」
雑音。椅子が倒れる音。凛の声が遠くなる。
「お姉ちゃん、誰かに――」
通話が切れた。
冴は携帯を握りしめた。指の血の気が引いていく。
「朽木先生。もう一度かけてみなさい」
御堂の声が聞こえた。冴はすぐにかけ直した。呼び出し音が鳴り続ける。出ない。
もう一度。出ない。
三度目。出ない。
冴の手が震えていた。頭の中で最悪の想像が走る。凛が尾行されていた。東栄製薬の元社員に接触したことで、神崎の監視網に引っかかった。
「凛の位置情報を確認する」
冴はスマートフォンのアプリを開いた。凛と共有している位置情報。ピンが表示される。渋谷。道玄坂の近く。
「先生。行かなければ」
「行きなさい。私はここで待っている」
冴は御堂の家を飛び出した。玄関で靴を履く手がもどかしい。
走りながら安西に電話をかけた。
「安西さん。凛が渋谷で尾行された可能性がある。通話が途切れた。位置情報は道玄坂付近。頼む」
「分かりました。防犯カメラの映像を探します」
冴はタクシーを拾った。渋谷へ向かう車内で、何度も凛に電話をかけ続けた。
出ない。
出ない。
出ない。




