被験者02
安西が仲村のデータを精査するのに三日かかった。
四百メガバイトの中身は、鏡花プロジェクトの内部記録そのものだった。被験者データ、会議録、監督官通信、薬剤投与記録、脳波測定データ。全五期にわたる報告書が時系列で整理されている。
安西は冴と薫を自宅に呼んだ。三台のモニターにデータを表示しながら、説明を始めた。
「まず、被験者は二名。被験者01、朽木冴。当時五歳。被験者02、高宮鈴音。当時五歳。二人とも『残留記憶感応性試験』の適格基準を満たしていた」
画面に被験者カードが表示された。幼い冴と鈴音の写真。白い検査着を着て、丸い椅子に座っている。
冴は自分の幼い顔を見た。何の表情もない目。隣の鈴音は、まだ笑っていた。
「適格基準というのは」
薫が聞いた。
「臨死体験の既往歴です。朽木先生は四歳のとき高熱で心肺停止から蘇生。高宮鈴音は三歳のとき交通事故で一時心肺停止。二人とも臨死体験後に、御堂の予備研究で『残留電位への感応性』が確認された」
「つまり能力の素質があった」
「はい。プロジェクトはその素質を増幅・安定化させる実験でした」
安西がファイルを切り替えた。
「投与記録です。被験者01と02に、神経回路の可塑性を促進する薬剤が段階的に投与されています。第一期は週一回。第二期から週三回に増加。第三期以降は毎日」
薫が画面を覗き込んだ。
「この薬剤……トリカルバゾン系の前駆体ね。園部の体内から検出された鎮静剤と同じ系統の化合物」
「仲村が持ち出そうとしたデータの一つです。鏡花プロジェクトの投与薬剤が、後に東栄製薬の通常研究に流用されていた。鎮静剤としての応用は副産物でした」
冴は画面を見つめた。五歳の自分に毎日投与されていた薬剤。能力を作るための薬。
「脳波データを見てください」
安西が新しいファイルを開いた。二本の波形が並んでいる。
「上が被験者01、下が02。第一期の時点では似たパターンですが、第三期以降に大きく乖離しています。02の脳波は振幅が三倍から五倍に増大し、特異な周期性を示しています。素数に対応するスパイク。これが後の『素数月間隔』の原因です」
薫が息を呑んだ。
「被験者02の脳は、実験で異常な活性化を強いられた。能力は01より強力だけど、脳の負荷が桁違い」
「そうです。第四期の報告書に記載があります」
安西が読み上げた。
「『被験者02は感応力において01を大幅に凌駕するが、制御能力に著しい欠陥を呈する。頻繁な精神的発作(解離、幻覚、自傷行為)が認められ、投薬による制御を試みるも効果は限定的。被験者02の社会復帰の可能性は極めて低い』」
冴の手が膝の上で握りしめられた。
「第五期。最終報告」
安西の声がわずかに揺れた。
「『プロジェクト主任・御堂孝之より中止進言あり。倫理的問題および被験者02の健康状態悪化を理由とする。監督官・神崎怜司との協議の結果、以下の処遇を決定。被験者01は記憶処理(感応性試験に関する記憶の消去)を施し、保護者に返還。被験者02は社会復帰不能と判断し、以降の管理は特命捜査対策室・神崎怜司が担当する』」
冴は立ち上がった。窓に向かって歩き、額をガラスに押し当てた。
自分は返された。記憶を消されて、普通の子どもとして家に帰った。鈴音は帰れなかった。孤児だから帰る場所がなかったのか。制御不能だったから返せなかったのか。
その両方だ。
「冴」
薫の声が背中に届いた。
「あなたの失われた二年間の記憶。五歳から七歳。その間ずっと、あなたは鈴音と一緒にいた」
「白い部屋で」
「ええ。毎日、薬を投与され、検査を受け、記憶を食べる訓練をさせられていた。そして七歳のとき、あなたは記憶を消されて帰された。鈴音はそのまま残された」
冴はガラスに額をつけたまま目を閉じた。幼い鈴音の声が聞こえる。「こわいね」。白い部屋で手を繋いだ小さな手の温度が、指先に蘇る。
「監督官通信のフォルダ」
安西が画面を切り替えた。
「プロジェクト終了後の通信記録です。神崎から御堂への連絡が数年間続いています。内容は被験者02の処遇に関する報告。最初の数年は『治療経過』という体裁ですが、途中から『運用報告』に変わっています」
「運用」
「第一の事件が起きた時期と一致します。神崎が鈴音を口封じの道具として使い始めた時期」
安西がファイルの最終ページを表示した。
「最終報告の付記。『被験者02の処遇について――プロジェクト終了後、被験者02は神崎怜司の管理下に移行する。被験者02の能力は、適切な管理下において、国家安全保障上の特殊任務への応用が可能と判断される』」
国家安全保障上の特殊任務。
五歳の少女を薬漬けにして能力を植え付け、社会復帰不能にした挙げ句、殺人の道具にする。それを国家安全保障と呼ぶ。
冴はガラスから額を離した。振り返った。
「安西さん。このデータは裁判で使えるか」
「物的証拠としての価値は極めて高いです。ただ、入手経路の合法性について問われる可能性はあります」
「仲村が自分の意志で保管したデータだ。遺品として扱えるはずだ」
「その方向で法的な裏付けを取ります」
薫が冴のそばに来た。
「冴。あなたと鈴音さんは、同じ部屋で二年間過ごした。同じ薬を投与され、同じ実験を受けた。違ったのは結果だけ。あなたは安定して、鈴音さんは壊れた」
「運が良かっただけだ」
「違う。あなたは安定していたから帰れた。鈴音さんは不安定だったから帰れなかった。でもそれは二人の責任じゃない。実験をした側の責任よ」
冴は七枚の写真を思い出した。鈴音が送ってきた七枚。あれは招待であり、告発であり、そして助けを求める声だった。
「二十二年間」
冴は呟いた。
「鈴音は二十二年間、神崎の管理下にいた。その間に七人を殺した。殺すたびに壊れていった。それでも生きていた。私に会うために」
安西がモニターの前で黙っていた。薫が冴の手を握った。
窓の外は曇天だった。灰色の空が、白い部屋の天井に見えた。




