檻の中の駒
嶋田が一時休職に追い込まれたという連絡は、朝の七時に安西から届いた。
「内部調査の対象です。職務外活動に関する規律違反で。昨日の段階で辞令が出ていたそうです」
冴は携帯を握りしめた。爪が掌に食い込む。
「神崎か」
「直接の署名は人事部長ですが、起案元は特命対策室です」
三上への接触を把握されていた。嶋田が夜、居酒屋で会ったその翌朝に辞令。反応が速すぎる。店に盗聴があったか、三上の電話が傍受されていたか。
冴は上着を掴んで教室を出た。
◇
警視庁。特命捜査対策室。
冴が受付で名前を告げると、予想に反してすぐに通された。応接室ではなく、神崎の個室だった。窓の大きな部屋で、デスクの上は整然としている。本棚には法律書と心理学の専門書が並んでいた。
神崎怜司が立ち上がって迎えた。銀縁の眼鏡の奥の目が微笑んでいる。
「朽木先生。いらしてくださったんですね。お茶をどうぞ」
「嶋田さんの休職を撤回してほしい」
冴は座らなかった。神崎はカップを差し出す手を止めず、自分のデスクに戻った。
「嶋田くんの件は、残念ながら私の管轄ではないんだ。人事部の判断でね。ただ、彼の行動には少し問題があったようだ。退職者への非公式な接触、証拠品の不正な取り扱い」
「嶋田さんは正当な調査をしていた」
「何の調査かな」
神崎の目が笑ったまま動かない。冴は一瞬、自分がガラスの檻の中にいるような感覚を覚えた。
「朽木先生。座ってくれないかな。立ち話は落ち着かない」
冴は椅子に座った。神崎がお茶を差し出す。冴は手をつけなかった。
「嶋田くんを守りたい気持ちは分かるよ。彼は良い刑事だ。だからこそ、余計なことに首を突っ込んで身を滅ぼすのは惜しいと、私も思っている」
「余計なこと」
「鏡花プロジェクトのことだろう」
神崎はあっさりと言った。冴の鳩尾が冷えた。
「私は以前も言ったね。このプロジェクトのことは知っている。隠すつもりはない。ただ、正しい手順で、正しい人間が扱うべき情報なんだ」
「正しい人間とは」
「君だよ、朽木先生」
神崎がデスクの引き出しを開けた。一枚の書類を取り出す。
「正式協力者登録の書類だ。以前も提案したと思う。君の能力は、正しく使えば多くの人を救える。未解決事件の被害者の遺族に、真実を届けることができる。私はそれを支援したい」
「鈴音にも同じことを言ったのか」
神崎の手が一瞬止まった。ほんの刹那。すぐに元の穏やかな表情に戻る。
「鈴音さんのことも心配しているよ。彼女は不安定な状態にある。適切な治療と管理が必要だ。君が協力者になってくれれば、鈴音さんの処遇も改善できる」
「管理という言葉を使いましたね」
「保護と言い換えてもいい」
「同じことだ。檻は檻だ」
沈黙が落ちた。神崎の目が細くなった。笑みは消えていない。
「朽木先生。能力者という存在は、社会にとって非常に繊細な問題だ。公になれば混乱を招く。能力者を守ること、社会を守ること、その二つを両立させるのは簡単ではない」
「だから鈴音を道具にした」
「道具ではない。パートナーだよ」
冴の指先が震えた。この男は本気で言っている。自分の言葉を信じている。鈴音を二十五年間管理下に置き、七人の口封じを命じた人間が、パートナーという言葉を使う。
「私は協力者にはならない」
冴は立ち上がった。
「そうか。残念だね」
神崎が椅子から立たなかった。
「朽木先生。一つだけ伝えておくよ。私は彼を守ろうとした。嶋田くんのことだ。だが、彼が自分から危険な場所に踏み込んだ。私にも守れないことはある」
「脅しですか」
「忠告だよ。私はいつも忠告しかしない」
冴はドアに向かった。ノブに手をかけた瞬間、神崎が言った。
「君の能力は、鏡花プロジェクトの最大の成果だ。それを否定することは、自分自身を否定することになる。よく考えてほしい」
冴はドアを開けて出た。
廊下を歩いた。足音が反響する。心臓が速い。神崎の穏やかな声が耳の奥にこびりついている。
エレベーターホールに向かう途中、角を曲がったところで誰かとすれ違った。
女性だった。事務服を着ている。冴と同じくらいの身長。すれ違う瞬間、冴の目がその手首に吸い寄せられた。
シルバーのブレスレット。
細い銀の鎖。園部の記憶の中で、仲村の記憶の中で、同じものを見た。
冴は立ち止まって振り返った。
廊下は空だった。
女性の姿はどこにもない。消えていた。ドアが開いた音も、足音も聞こえなかった。ただ、微かな残り香が廊下に漂っている。
ジャスミンとバニラ。
鈴音は、ここにいる。この建物の中に。神崎のすぐ傍に。
冴はエレベーターに乗った。扉が閉まる。箱の中で一人になった瞬間、壁に背をつけて目を閉じた。
鈴音は神崎の足元にいる。飼い殺しにされながら、冴に会いに来ている。事務服を着て、ブレスレットをつけて、廊下をすれ違う。冴に自分の存在を示すために。
エレベーターが一階に着いた。冴は庁舎を出て、冬の空気を吸った。
携帯を取り出し、嶋田にメッセージを送った。
「神崎と会った。協力者登録を断った。嶋田さんの休職撤回は拒否された。そして、廊下で鈴音を見た。この建物の中にいる」
返信はなかった。嶋田の携帯は既に押収されているのかもしれない。
冴は歩き始めた。霞ヶ関の冬の風が頬を切る。鈴音の残り香が、まだ鼻の奥に残っていた。




