最後の被害者
第七の事件。高梨昇。五十八歳。元新聞記者、退職後にノンフィクション作家に転じた。自宅書斎で絞殺。侵入の痕跡なし。犯人は被害者に招き入れられた可能性が高いとされた。
冴は高梨の検屍記録を読み返していた。絞殺に使われたのは柔らかい布状のもの。シルクのスカーフが首に巻かれた状態で発見されている。暴行の痕跡は頸部以外になく、争った形跡も最小限。
嶋田が安西経由で入手した資料を持ってきた。
「高梨の最後の原稿だ。未完成のまま、パソコンのハードディスクに残っていた。遺族が保管している」
冴はプリントアウトされた原稿を手に取った。仮題は「鏡の花――忘れられた子どもたち」。
冒頭に走り書きのメモが添えられている。
「二十五年前、政府予算で行われた認知科学の極秘研究。被験者は幼児。プロジェクト名:鏡花。主任研究者は大学教授。監督官は内閣府から出向した若手官僚。被験者二名のうち一名は社会復帰、一名は消息不明」
原稿は三章まで書かれていた。第一章は鏡花プロジェクトの概要、第二章は東栄製薬の関与、第三章は被害者たちの接点。第四章は未執筆で、構成メモだけが残されていた。
「第四章・タイトル案:もう一人の子ども。消えた被験者02の行方を追う」
高梨はここまで辿り着いていた。
「朽木先生」
嶋田の声が低い。
「高梨は死の一週間前に、関口義人の元妻に取材している。関口が追っていた『特別な案件』について聞き出していた。つまり関口の調査を引き継いでいた」
「関口から高梨へ。ジャーナリストのリレーだ」
「そして高梨も殺された」
冴は原稿を閉じた。
◇
高梨の血液サンプルは警察の証拠保管室に残っていた。嶋田が左遷前の人脈を使い、安西が手続きを処理して、サンプルの一部が法医学教室に届いた。
深夜。冴は手袋を外し、血液の付着した布片に触れた。
記憶が流れ込んでくる。高梨の最期。
書斎。デスクランプの黄色い光。原稿が散らばっている。万年筆のインクの匂い。高梨は椅子に座り、誰かと向かい合っていた。
「あなたは記者だった方ですね。高梨先生」
女性の声。静かで、丁寧な口調。
「君は……取材に応じてくれるのか」
「いいえ。お話に来ただけです」
高梨の視界に映る人物の顔には、霧がかかっていた。
冴の呼吸が止まった。これは記憶の劣化ではない。映像自体が霧に包まれている。まるで犯人の顔だけが選択的にぼかされているかのように。
能力者の記憶への干渉。鈴音は高梨の記憶に直接触れ、自分の顔を消した。
高梨は霧の向こうの人物と言葉を交わしている。
「鏡花プロジェクトのことを知っている。被験者の一人が生きていることも。君がその人間なのか」
「……はい」
「君は被害者だ。告発する側に回れるはずだ」
長い沈黙。
「高梨先生。私はもう、そちら側には行けないんです」
霧の中の人物が立ち上がった。高梨の視界の端に、手に持った白いシルクのスカーフが映る。
「あなたの原稿を読ませてもらいました。第三章まで。とても正確です」
「待ってくれ。君の話を聞かせてほしい。記事にする。世に出す。そうすれば――」
「もう遅いんです」
人物が近づいてくる。高梨が椅子から立ち上がろうとしたが、既にスプレーが顔に吹きかけられていた。鎮静剤。意識が揺らぐ。
高梨が最後に見たもの。
霧が、一瞬だけ晴れた。
泣いている若い女性の顔。頬を涙が伝っている。唇が震えている。
「ごめんなさい。あなたの記憶は――」
記憶が途切れた。
冴は手を離した。指先が痺れている。鼻から血が垂れていたが、拭う余裕もなかった。
泣いていた。犯人は泣いていた。
高梨の記憶の中の女性の顔。霧がかかっていたのは鈴音が記憶を操作したからだ。だが最後の一瞬、感情が制御を上回った。涙を流した瞬間、霧が消えた。
その顔は美しいとも痛ましいとも言えなかった。ただ壊れかけた人間の顔だった。目の奥に絶望と、それでもなお消えない何かがあった。
冴は自分の胸の傷痕に手を当てた。鈴音が刺した傷。殺意のない刺傷。
鈴音は七人を殺し、そのたびに泣いた。高梨に向き合いながら、本当は告発する側に行きたかったのだろう。だが神崎の管理下にある限り、それはできなかった。
記憶を消す力があるのに、涙だけは消せなかった。
冴はデスクに戻り、七枚目の写真を手に取った。高梨昇。銀縁の眼鏡をかけた温厚そうな顔。この人は鈴音に「告発する側に回れ」と言った。最後の被害者が最後に発した言葉は、鈴音への信頼だった。
携帯を取り出し、嶋田にメッセージを送った。
「第七の事件、記憶確認。犯人は能力で被害者の記憶に干渉し自分の顔を消している。ただし最終瞬間に感情の制御が崩れ、泣いている女性の顔が映った。犯人は事件のたびに精神的に崩壊が進行している」
送信した後、冴は窓の外を見た。
高梨が書こうとした原稿の第四章。「もう一人の子ども」。
その子どもは今も泣いている。二十五年間、一度も止まらなかった涙が、七つの事件の記憶の底に沈んでいる。




