灰の中の声
鈴音は、夜を膝に乗せたまま動かなかった。
窓から差し込む街灯の光が、フードの下の細い顔を照らしている。頬がこけ、目の下に深い隈が刻まれていた。それでも瞳だけが暗い部屋の中で異様な強さを放っている。
冴は玄関に立ったまま、息をすることも忘れていた。
「冴ちゃん」
鈴音の声は電話越しに聞いたときよりもずっと細かった。乾いて、どこか遠い場所から届くような響き。
「……入って。ここ、冴ちゃんの家でしょう」
夜がゴロゴロと喉を鳴らしている。猫は人を見抜く。夜が警戒していないことが、冴の中の何かをほどいた。
冴は静かにドアを閉め、鍵をかけた。靴を脱ぐ。鏡花の香りが部屋の空気に溶けていて、一歩進むごとに濃くなる。ジャスミンとバニラ。ムスクとアルデヒド。七つの事件の現場に残されていた匂い。
テーブルを挟んで向かい合った。
鈴音がフードを下ろした。黒い髪に白いものが混じっている。三十二歳のはずだ。冴と同い年。だがその姿は十年以上老けて見えた。
「痩せたね」
冴の口から、思いもよらない言葉が出た。
鈴音が僅かに笑った。唇が割れていた。
「冴ちゃんは変わらない。あの頃と同じ目をしてる」
「あの頃のことは、最近まで覚えていなかった」
「うん。知ってる。御堂先生が消したから」
沈黙が降りた。夜が鈴音の膝から降り、冴の足元に来て体を擦りつけた。
「話したいことがある。でも今日は――」
鈴音が言いかけた瞬間、冴の携帯が鳴った。嶋田からだった。
「朽木先生。仲村明日香の検屍記録に動きがある。明日、教室に来られるか」
「行く」
通話を切ると、鈴音は既に立ち上がっていた。窓に向かって歩き、鍵を開ける。
「待て」
「大丈夫。また来る」
鈴音が振り向いた。街灯の光が逆光になって表情は見えない。
「第六の事件。仲村明日香のこと。冴ちゃんなら、記憶の中で聞こえるはず。私の声が」
窓から出て行った。非常階段の音が遠ざかる。鏡花の残り香だけが部屋に漂っている。
冴はしばらく動けなかった。
◇
翌朝、法医学教室の資料室。
仲村明日香。三十一歳。東栄製薬広報部勤務。自宅マンションの火災で焼死。事故として処理されたが、冴が二年前に記憶を食べた際、意識喪失後の放火であることを確認していた。
嶋田が資料を広げた。
「仲村の件で新しい動きがあった。安西が当時の119番通報の音声を入手した。通報者は匿名だが、通報時刻が火災発生推定時刻の三分後だ。火が回る前に通報している」
「犯人が通報した」
嶋田が頷いた。
「殺しておいて、それでも焼け死なせたくなかった。そういうことだろう」
犯人には「不必要な苦痛を与えない」という配慮がある。園部を鎮静剤で眠らせてから溺死させたのと同じだ。柏木は言葉だけで追い詰めた。美咲は車内で首を絞めかけたが、殺しきれずに逃がしている。
殺しながら、弔っている。
「記憶を食べ直す」
冴は言った。
「仲村の残存組織はまだあるか」
「焼損が激しい。使えるのは歯髄の保存標本だけだ。精度は低い」
「やる」
◇
深夜の法医学教室。
冴は一人で標本室に入った。保管庫から仲村明日香の歯髄組織を取り出す。ホルマリンの匂いが鼻を刺した。
手袋を外した。素手の指先が標本に触れる。
記憶が流れ込んできた。
焼損が激しいせいで、映像は途切れ途切れだった。ノイズの中に断片が浮かぶ。仲村のマンションの一室。夜。テーブルの上にノートパソコンと紙の束。東栄製薬のロゴが入った封筒。
仲村は何かを読んでいた。被験者のデータだ。画面に映る数字と名前。読み取れない。焼けた記憶の端が崩れていく。
そこに、声が入ってきた。
「もう逃げられない」
女性の声。静かで、どこか壊れた響き。だがその奥に哀しみがある。
仲村が振り向いた。玄関に人影。黒いフード。甘い香り。
「あなたが持ち出そうとしたデータ。あれは、たくさんの人を傷つける」
「違う。私は告発しようとして――」
「分かってる。でも、もう遅い」
フードの人物が近づいてくる。手に小さなスプレー。仲村の顔に向けて噴射された。仲村の視界が歪み始める。鎮静剤。
意識が沈んでいく中で、仲村は最後に声を聞いた。
「ごめんなさい。あなたの記憶は、残るから」
記憶が途切れた。
冴は標本から手を離した。鼻血が垂れている。ティッシュで押さえながら、目を閉じた。
声が耳の奥で反響していた。「もう逃げられない」。その声色が、別の記憶と重なる。白い部屋。隣のベッドから聞こえた幼い声。
「こわいね」
同じだ。声のトーン。抑揚。言葉の間にある怯えと諦め。二十五年の歳月を挟んで、五歳の少女の声と三十代の女性の声が、不気味なほど一致している。
鈴音は変われなかった。あの白い部屋から、一度も出られなかった。
冴はティッシュを握りしめたまま、暗い標本室の中で長い間動かなかった。指先がまだ震えている。仲村の最期の恐怖が皮膚の下を這い回っていた。
携帯を取り出した。嶋田に短いメッセージを打つ。
「仲村は意識喪失後に放火された。犯人は鎮静スプレーを使用。犯人の声を確認。幼少期の鈴音の声と一致」
送信ボタンを押した。
標本室の扉を開けると、廊下の非常灯が白い光を投げかけていた。誰もいない。自分の足音だけが反響する。
研究室に戻り、椅子に座った。デスクの上に七枚の写真が並んでいる。六枚目、仲村明日香。笑顔の若い女性。この人は告発しようとしていた。鏡花プロジェクトの存在を世に出そうとして、消された。
冴は六枚目の写真を手に取り、裏返した。
何も書かれていない。だが、微かに甘い匂いが残っていた。




