もう一人の被験者
薫の実家は、横浜の閑静な住宅街にあった。
薫の母、桐生芳恵は六十代の女性だった。白髪を綺麗にまとめ、穏やかな笑顔で二人を迎えた。リビングの花瓶に百合が活けてある。甘い香りが部屋を満たしていた。
「薫から電話をもらったときは驚きました。三十年も前のことを聞かれるなんて」
芳恵がお茶を淹れてくれた。冴と薫が並んでソファに座る。冴は客人の顔をしていたが、指先だけが震えていた。
「お母さん。東栄製薬で働いていたことは聞いていたけど、看護師だったのは知らなかった」
「若い頃のことだからね。結婚して辞めたの。薫が生まれる前の話」
「お母さんが東栄製薬にいた頃、特別な研究プロジェクトに関わったことはありますか」
芳恵の笑顔が僅かに強張った。
「……なぜそんなことを」
「仕事で必要なんです。法医学的な調査の一環で」
冴が静かに口を開いた。
「桐生さん。鏡花計画という名前に、心当たりはありませんか」
芳恵の顔から血の気が引いた。お茶を持つ手が震え、カップがカチカチと受け皿に当たった。
「……どこでその名前を」
「私は鏡花計画の被験者でした」
芳恵が冴を見た。目が見開かれている。
「あなたが……被験者の」
「はい。朽木冴。被験者01です」
長い沈黙が落ちた。百合の香りが重く漂っている。
芳恵はカップをテーブルに置き、両手を膝の上で組んだ。
「私は東栄製薬の医療スタッフとして、研究施設内の被験者の健康管理を担当していました。二人の小さな女の子の、日常的な看護を」
薫が息を呑んだ。
「お母さん。あの子供たちを直接見ていたの」
「ええ。毎日。食事の世話、体温の測定、体調の記録。二人とも、とても可愛い子供だった」
芳恵の目に涙が浮かんだ。
「片方の子は――冴さんね――おとなしくて、言われたことを黙ってやる子だった。もう片方は」
「鈴音」
「そう。鈴音ちゃんは、明るくて、よく笑う子だった。最初は。でも実験が進むにつれて、笑わなくなった。夜中に泣くようになった。私は御堂先生に何度も訴えた。この子たちを帰してあげてください、と」
「なぜ辞めたんですか」
「プロジェクトが中止になったとき、私も退職しました。あの場所にいることに耐えられなかった。でも――鈴音ちゃんのことが、ずっと心に残っていた。あの子だけが帰れなかった」
冴の胸が締めつけられた。
「桐生さん。薫が被害者リストに載っていた理由が、これで分かりました」
「被害者リスト?」
薫が冴を見た。
「私の名前がリストにあったのは、お母さんが鏡花計画に関わっていたから?」
「そうだと思う。犯人――鈴音は、プロジェクト関係者とその家族を把握している。薫はプロジェクトの内部を知る看護師の娘だ。口封じの対象になる」
芳恵が顔を覆った。
「あの子たちに関わったことが、薫に危険を」
「お母さん」
薫が芳恵の手を握った。
「お母さんのせいじゃない。悪いのはあの子供たちを利用した人間だよ」
冴は立ち上がった。
「桐生さん。被験者の処遇に関する報告書が存在すると聞いています。お持ちではないですか」
芳恵は首を振った。
「私は何も持ち出していません。でも、プロジェクト終了時に『被験者の処遇報告書』という書類が作成されたことは知っています。被験者01は保護者に返還、被験者02は――」
「特命対策室預かり」
「そう」
芳恵の声が掠れた。冴は頷いた。嶋田が封印文書から発見した内容と一致する。
◇
帰りの電車の中で、冴は全てを繋ぎ合わせた。
鈴音は鏡花計画の被験者02。孤児で、帰る場所がなく、能力が制御不能になり、プロジェクト中止後に神崎の管理下に移された。以降、少なくとも十七年間、神崎の指示で七人の口封じを実行してきた。
実行者は鈴音。使っていたのは神崎。
鈴音は冴に全てを見せようとしている。写真を送り、メッセージを送り、幼少期の記憶を共有しようとしている。「私の記憶を食べてくれる?」という、まだ聞こえていない言葉が、全ての行動の底に流れている。
電車が駅に着いた。ホームに降りた瞬間、携帯が鳴った。
非通知ではなかった。番号が表示されている。見覚えのない番号。
冴は出た。
数秒の沈黙。そして、声が聞こえた。
「朽木冴」
女性の声。静かで、どこか壊れた響き。だがその奥に、確かな意志がある。
「やっと、全部見えた?」
冴の心臓が跳ねた。
「鈴音」
「うん」
声が震えた。
「冴ちゃん。覚えてる? 白い部屋で、二人で手を繋いだこと」
「覚えている」
「よかった」
鈴音の声に、涙が混じった。
「冴ちゃん。今度は私の記憶を、食べてくれる?」
ホームを通過する電車の風が冴の髪を巻き上げた。騒音の中で、鈴音の声だけが鮮明に聞こえた。
「二十五年分の記憶。全部。神崎に言われてやったこと。七人のこと。全部、冴ちゃんに渡したい。冴ちゃんだけが、私の記憶を正しく受け取れるから」
「鈴音。会えるか」
「うん。会いたかった。ずっと」
通話が切れた。
冴は携帯を握りしめたまま、ホームに立ち尽くした。通過する電車の風が止み、静寂が戻った。
改札を出て自宅に向かった。マンションのエントランスに入り、エレベーターのボタンを押した。
自室の前に立ったとき、冴の足が止まった。
ドアが、僅かに開いていた。
鍵はかけたはずだ。冴は息を殺した。ドアの隙間から、微かな香りが漂ってくる。
ジャスミンとバニラ。ムスクとアルデヒド。
鏡花の匂い。
冴はドアに手をかけた。静かに、開いた。
暗い部屋の中で、夜が誰かの膝の上で丸くなっている。窓際の椅子に、黒いフードを被った細い人影が座っていた。
夜がゴロゴロと喉を鳴らしている。
人影が顔を上げた。フードの下から、冴と同じ色の暗い目が見えた。
「冴ちゃん」
鈴音が、そこにいた。




