写真の裏側――二人目の記憶
写真を手に取った瞬間、指先が痺れた。
紙の質感を通して、微かな残響が伝わってくる。この写真に触れた人間の感情。悲しみ。懐かしさ。そして、切実な希望。
冴はダイニングテーブルの上に写真を置いた。夜が足元で尻尾を振っている。蛍光灯の下で、幼い二人の少女が白い部屋に座っている。白い壁、白い天井、二つの小さなベッド。フラッシュバックで何度も見た光景そのものだった。
幼い冴は怯えた顔をしている。隣の少女――鈴音は、冴の手を握って微かに笑っている。怖いのに笑おうとしている。守ろうとしている。五歳の子供が、同じ五歳の子供を。
写真の裏の文字。「ようやく、あなたにも見えましたか」。
鈴音が送ってきた。二十五年の時を経て、あの白い部屋の記憶を共有しようとしている。
冴は目を閉じた。
意図的にフラッシュバックを呼び起こす。普段は抑えつけている記憶の蓋を、自分から開ける。危険な行為だ。制御を失えば、食べた記憶の洪水に飲まれる。
だが冴は蓋を開けた。
白い部屋。電極をつけられた幼い自分が、ベッドに横たわっている。天井の蛍光灯が眩しい。隣のベッドから、小さな手が伸びてくる。
「こわいね」
鈴音の声。五歳の透明な声。
「うん。こわい」
幼い冴の声だ。自分の声を外から聞いている奇妙な感覚。
「でも、二人だから大丈夫」
鈴音がそう言った。冴の手を握った。小さな手は温かかった。
記憶が切り替わる。別の日。白い部屋で、二人が並んで座っている。前にガラスの容器が置いてある。中に何かの組織が入っている。
「冴ちゃん。私ね、見えるの。この中の人が最後に見たもの」
鈴音の目が遠くなる。五歳の少女の目ではない。何かに憑かれたような、焦点の合わない目。
「暗い。冷たい。だれか、たすけて」
鈴音が泣き始めた。冴が鈴音の手を握り返した。
「大丈夫。ここにいるよ」
記憶が途切れた。
◇
冴は目を開けた。
頬が濡れていた。泣いていた。鼻血は出ていない。深層までは潜らなかったからだ。だが、幼い日の記憶の断片が新たに蘇った。
鈴音は五歳のとき、すでに冴よりも深く記憶を読み取っていた。そして読み取った他者の苦痛が、鈴音自身を侵食していた。あの子は壊れていった。冴の隣で。冴の手を握りながら。
冴はテーブルの上の写真を見た。手を繋ぐ二人の少女。一人は社会に戻された。もう一人は闇に残された。
「もう一人の自分」
冴は呟いた。鈴音は冴の鏡像だ。同じ実験を受け、同じ能力を植え付けられた。運命の分岐点は、帰る場所があったかなかったかだけだ。冴には母親がいた。鈴音には誰もいなかった。
携帯が震えた。嶋田からだった。
「冴先生。鈴音について考えていたことがある」
「聞かせてくれ」
「鈴音は冴先生に何をさせたいんだ。七枚の写真を送り、メッセージを送り、今度は幼少期の写真まで。全部、冴先生に向けた行動だ。犯人が捕まりたいなら自首すればいい。だがそうしない。冴先生に見つけてほしいんだ。なぜか」
冴は考えた。
「真実を暴くこと。私の手で」
「そうだと思う。鈴音は神崎の道具として使われてきた。自分では何もできない。だが冴先生なら、鈴音の記憶を食べて真実を証明できる。鈴音が求めているのは、逮捕ではなく証言だ」
冴は写真を裏返した。「ようやく、あなたにも見えましたか」。
「鈴音は私に、全てを見てほしいと言っている。七つの事件の真実を。そして鈴音自身の二十五年間を」
「危険だぞ。鈴音の記憶を食べるということは、七人分の殺人の犯人視点の記憶を受け入れるということだ」
「分かっている」
「先生」
「嶋田さん。私はそのためにここにいる。死者の記憶を食べて、真実を届ける。それが私の仕事だ」
電話を切った。
冴はソファに座り、写真を胸に抱えた。夜が膝に乗ってきた。猫の体温が冴の腿を温める。
夜が明けたら薫に連絡する。薫から緊急の連絡が来るかもしれない。
携帯が震えた。薫からのメッセージだった。
「冴。緊急。私の母が、東栄製薬の看護師だった」
冴は画面を見つめた。夜が不思議そうに顔を上げた。
薫の母親が東栄製薬の看護師。鏡花計画に関わっていた可能性。薫が標的リストに載っていた理由が、ここに繋がるのか。
冴は返信を打った。
「明日、詳しく聞かせてくれ」
夜が鳴いた。冴は猫の頭を撫でながら、暗くなった窓の外を見つめた。写真の中の幼い二人の少女が、冴の胸の中で手を繋いでいた。




