御堂の覚悟
御堂の書斎は、前回と空気が違っていた。
本棚の前に段ボール箱がいくつか積まれている。古い論文ファイルやノートが詰め込まれていた。御堂は冴が来ることを予想していたかのように、玄関で迎えた。
「冴くん。今日は一人か」
「はい。嶋田さんは来ていません」
「そうか。上がりなさい」
書斎に入ると、テーブルの上にマニラ封筒が置いてあった。御堂はお茶も淹れずに椅子に座った。顔色が悪い。前回会ったときより痩せたように見える。
「先生」
「冴くん。今日は私から話す」
御堂の声は静かだった。震えはなかった。何かを覚悟した人間の声だった。
「もう一人の被験者について、話す」
冴は息を止めた。
「被験者02。名前は高宮鈴音。冴くんと同じ年齢で、同じ脳波パターンを持っていた。孤児院から連れてこられた子供だった」
「孤児」
「ああ。冴くんには母親がいた。保護者の同意書を取って、実験期間が終われば家庭に戻す手はずがあった。だが鈴音には帰る場所がなかった」
御堂は目を閉じた。
「鈴音はより強い感応力を示した。冴くんの三倍から五倍の残留記憶量を一度に読み取れた。だが代償として、読み取った記憶が自分の記憶と混ざり合う症状が出た。他者の恐怖、苦痛、絶望が、鈴音自身の感情として定着してしまう。
六歳の少女が、他者の死の記憶に押しつぶされていった。夜中に泣き叫び、壁に頭をぶつけ、自分が誰なのか分からなくなる。私は中止を進言した。内閣府の倫理委員会にも報告した。三ヶ月後にプロジェクトは中止された」
「中止後の鈴音は」
御堂の手が震えた。
「私は鈴音の治療と社会復帰を提案した。専門の施設でケアを受ければ、時間はかかっても回復できる可能性があった。だが神崎が反対した」
御堂の目に暗い炎が燃えていた。
「神崎は言った。『この子の能力は国家にとって有用だ。管理下に置いて運用すべきだ』と。六歳の、壊れかけた子供を前にして、そう言った」
「先生はどうしたんですか」
「抗議した。内閣府にも訴えた。だが鏡花計画自体が非公式のプロジェクトだった。正式な記録はほとんど残されていない。私が声を上げても、存在しないプロジェクトの被験者を救うことはできなかった」
御堂は段ボール箱の一つから、古いノートを取り出した。
「最終的に、私は取引をした。冴くんの安全と引き換えに、鈴音のことから手を引くと。神崎は同意した。冴くんは記憶処理を施されて母親のもとに返された。私は冴くんの恩師という形で近くに残り、能力が再発したときに備えた」
「鈴音は」
「神崎の管理下に移された。それ以降のことは、正直なところほとんど知らない。だが断片的な情報から推測できることはある」
御堂がマニラ封筒を冴に差し出した。
「これは私が二十五年間かけて集めた、鈴音に関する断片的な記録だ。神崎の部署への予算の流れ、不自然な出張記録、関連施設の維持費。直接的な証拠ではないが、鈴音が神崎の管理下で生かされ続けていたことを示す状況証拠だ」
冴は封筒を受け取った。厚い。二十五年分の記録が詰まっている。
「先生。なぜ今になってこれを」
御堂は冴を真っ直ぐに見た。
「冴くんが自分でここまでたどり着いた。もう隠し通せない。それに」
御堂は窓の外を見た。
「鈴音のことを神崎に聞くな、と前回言ったね。撤回する。鈴音はもう、自分から動き始めている。冴くんがそう言った。ならば、私がこれ以上黙っていることは鈴音への裏切りだ。二十五年前に一度裏切った。もう二度目はない」
冴は封筒を抱えた。中の紙の束が、二十五年分の罪悪感の重さそのものだった。
「先生」
「うん」
「ありがとうございます」
御堂は小さく首を振った。
「礼を言われる資格はない。私は君と鈴音の両方を、二十五年間裏切ってきた」
冴は御堂の家を出た。門の前で立ち止まった。封筒を胸に抱えたまま、空を見上げた。春の空は高く、薄い雲が流れている。
自宅に帰ると、郵便受けに差出人不明の封筒が入っていた。白い封筒。宛名は「朽木冴」とだけ書かれている。
開けると、一枚の写真が入っていた。白い部屋。二つの小さなベッド。そこに並んで座る二人の幼い少女。一人は幼い冴。もう一人は、黒い髪を肩まで伸ばした痩せた少女。手を繋いでいる。
写真を裏返した。
小さな文字で、こう書かれていた。
「ようやく、あなたにも見えましたか」




