監視の目――神崎の包囲網
呼び出されたのは、警視庁の特命捜査対策室だった。
冴が訪れたのは初めてだった。本庁舎の五階。無機質な廊下の突き当たりに、銀色のプレートが掲げてある。「特命捜査対策室」。受付の女性に名前を告げると、すぐに奥の応接室に通された。
神崎怜司は窓際に立っていた。
銀縁の眼鏡。端正な顔。グレーのスーツに青いネクタイ。五十歳には見えない若々しさだが、目元の皺が年齢を裏切っている。窓から差す午後の光が、神崎の背後に影を作っていた。
「朽木先生。お忙しいところ恐縮です」
柔らかい声。提案するような口調。神崎は冴に椅子を勧め、自分はデスクの向こう側に座った。
「単刀直入に伺います。なぜ呼ばれたのですか」
「先生の最近の活動について、少しお話ししたくて」
神崎が微笑んだ。温かい笑顔だが、冴の背筋に冷たいものが走った。
「先生は最近、複数の未解決事件の関連資料にアクセスされていますね。証拠保管庫への入退室記録、メールの送受信、外部の人物との接触。すべて把握しています」
「私は法医学者として、正当な業務の範囲で活動しています」
「もちろんです。ただ、先生の活動が一部の関係者に不安を与えているのも事実です」
神崎はデスクの引き出しからファイルを取り出した。冴の行動記録だった。日付、時間、場所、接触人物。安西からの警告通り、すべて記録されていた。
「朽木先生。率直に申し上げます」
神崎の声のトーンが変わった。柔らかさはそのままだが、その奥に鋼の芯が見えた。
「先生の特殊な才能は、この国にとって極めて貴重な資産です。私はそれを守りたいと考えています」
「守る、ですか」
「ええ。特命捜査対策室には、特殊な捜査手法を安全に運用するための枠組みがあります。先生が正式な協力者として登録されれば、法的な保護と支援を受けられます」
冴は神崎の目を見た。穏やかな目。だがその奥に計算がある。
「協力者登録の条件は」
「特にありません。ただ、先生の活動を室の枠内で管理させていただきたい。単独での調査活動は控えていただく。その代わり、必要なリソースは全て提供します」
管理。その言葉が引っかかった。
「神崎室長。鏡花プロジェクトのことも、ご存知なのでしょうか」
一瞬の沈黙。
「知っています」
神崎は躊躇なく認めた。冴は予想していたが、この率直さには驚いた。
「二十五年前、私は内閣府から派遣された若い監督官でした。プロジェクトの運営に関与していた。先生が被験者であったことも、もちろん知っています」
「それでも『守りたい』と仰るのですか」
「だからこそ、です。先生の能力がどこから来たかを知っているからこそ、それを正しく使えるよう導きたい。野放しにしておくことは、先生自身にとっても危険です」
冴の拳が膝の上で白くなった。
「嶋田刑事を左遷したのも、守るためですか」
神崎は微笑んだ。
「嶋田刑事は優秀な方です。ただ、独走する傾向がある。適切なポジションへの異動は、組織として当然の判断です」
嘘だ。冴には分かった。だがこの男は嘘を嘘と感じさせない。提案の形で命令し、微笑みの形で脅迫する。
「お考えいただけますか。急ぎません」
神崎が立ち上がった。面談の終了を告げる所作は優雅だった。冴も立ち上がった。
ドアに手をかけたとき、神崎が背後から言った。
「朽木先生。一つだけ。単独での調査を続ければ、先生だけでなく、先生の周囲の方々にも影響が及ぶ可能性があります。嶋田刑事のように」
柔らかい声。だが冴の背筋を氷が走った。
「お気をつけて」
冴はドアを閉めた。廊下を歩きながら、神崎の最後の言葉を反芻した。周囲への影響。嶋田。そして薫、凛、安西。全員が標的になり得る。
階段を下りているとき、すれ違った女性職員の手首が目に入った。
シルバーのブレスレット。
冴は振り返った。だが女性の姿は、もう廊下の角を曲がって消えていた。
細い手首。長身。フードは被っていなかったが、後ろ姿の輪郭が記憶の中のシルエットと重なった。
心臓が跳ねた。
まさか。鈴音が、この建物の中にいるのか。神崎の膝元に。
冴は階段を駆け下り、廊下を曲がった。誰もいなかった。静かな廊下に蛍光灯の光が落ちているだけだった。
冴は壁にもたれた。息を整えた。
見間違いかもしれない。だがシルバーのブレスレットは、園部の記憶の中の犯人と同じだった。
神崎は冴を「守る」と言った。だがその裏で、冴を刺した女を手元に置いている。
冴は本庁舎を出た。帰り道、嶋田に電話した。
「嶋田さん。神崎に呼ばれた。協力者登録を提案された」
「檻に入るな。絶対に」
嶋田の声は低く、厳しかった。
「分かっている」
「冴先生。あの男は穏やかに見えるが、自分の手を汚さずに人を潰す術を知っている。応じるふりをして時間を稼げ。だが絶対に、あの男の管理下に入るな」
冴は電話を切った。春の風が頬を撫でた。だが暖かさは感じなかった。
神崎の面談後、デスクの引き出しから古い写真を取り出す神崎の姿を、冴は知る由もなかった。写真には幼い二人の少女が映っている。白い部屋で、手を繋いでいる。一人は幼い冴。もう一人は、冴の知らない少女。
神崎は写真を眺め、引き出しに戻した。




