妹の嗅覚――凛の発見
蔵本夕子の研究室は、都内の私立大学の古い校舎の四階にあった。
水曜日の午後。冴と凛が並んで廊下を歩いている。凛はベージュのトレンチコートにスニーカー。出版社の名刺を胸ポケットに入れていた。
「お姉ちゃん、私がまず話すから。出版社の企画で認知心理学の特集を組むっていう設定でアポを取ったの」
「分かった」
「途中から本題に入るから、そのタイミングはお姉ちゃんに任せる」
冴は頷いた。凛の段取りの良さに、編集者としての力量が垣間見えた。
ドアをノックすると、中から落ち着いた声が返った。
「どうぞ」
蔵本夕子は五十代半ばの女性だった。銀縁の眼鏡をかけ、グレーのカーディガンを羽織っている。知的な顔立ちだが、目元に疲労の影がある。デスクの上に論文の束とティーカップが置かれていた。
「朽木凛さんですね。お電話いただいた」
「はい。こちらは姉の冴です。法医学の専門家として同行してもらいました」
蔵本は冴を見た。一瞬、その目に何かが走った。認識。あるいは警戒。だがすぐに消えた。
「どうぞおかけになって。紅茶でよろしいですか」
凛が認知心理学の研究について質問を始めた。蔵本は丁寧に答えた。記憶の可塑性、トラウマ記憶の再固定化、幼児期の記憶形成メカニズム。凛は本物の取材のように熱心にメモを取った。
二十分ほど経ったところで、冴が口を開いた。
「蔵本先生。一つお聞きしたいことがあります」
蔵本の手がティーカップの上で止まった。
「残留認知印象という概念をご存知ですか」
沈黙が落ちた。壁の時計の秒針が刻む音が、急に大きく聞こえた。
蔵本はティーカップを置いた。指先が僅かに震えている。
「……どこでその言葉を」
「鏡花計画の文書に記載されていました」
蔵本の顔色が変わった。白い。唇が薄くなった。
「あなたは――」
「法医学者の朽木冴です。鏡花計画の被験者でした」
蔵本が息を飲んだ。凛が冴を見た。冴は視線を蔵本に固定したまま続けた。
「先生は鏡花計画に技術顧問として参加されていました。プロジェクトの内容をご存知のはずです」
蔵本は長い間、冴を見つめていた。やがて、ゆっくりと眼鏡を外し、目頭を押さえた。
「二十五年。二十五年間、この話をしたことがなかった」
「今日、話していただけますか」
蔵本は窓の外を見た。キャンパスの中庭に桜の木が見える。まだ蕾が固い。
「私は当時、認知科学の若手研究者でした。御堂先生の理論に魅了されて参加した。残留記憶の計測と可視化が私の担当でした。被験者の脳波を測定し、感応が起きた瞬間のパターンを記録する。純粋な科学だと信じていました」
「被験者のことは」
蔵本の声が小さくなった。
「二人の幼い子供でした。五歳の女の子が二人。片方は安定した反応を示し、もう片方は――」
「制御不能だった」
「ええ。感応が起きると止められなくなる。外部からの記憶が洪水のように流れ込んで、本人のアイデンティティが溶ける。私は中止を進言した。御堂先生もそうだった。だが予算の執行期限があり、神崎という監督官が続行を求めた」
凛がペンを握りしめていた。目に涙が光っている。
「プロジェクトが終了した後、二人の子供はどうなりましたか」
「一人は記憶処理をして社会に戻した。もう一人は……」
蔵本は目を閉じた。
「あの子は、治療名目で施設に移された。その後のことは知らない。私はプロジェクト終了と同時に、全ての関連研究から手を引いた。逃げたんです。御堂先生と同じように」
沈黙が落ちた。凛がティッシュで目を拭いた。
「蔵本先生。もう一つだけ。制御不能だった方の被験者の名前を、教えていただけますか」
蔵本は首を振った。
「名前は――覚えていません。本当です。当時、被験者は番号で管理されていた。個人名は極力使わないルールだった」
冴は小さく頷いた。名前は別のルートで既に分かっている。高宮鈴音。
「先生。ご協力ありがとうございました」
冴が立ち上がると、蔵本が呼び止めた。
「朽木さん。あなたが被験者だった一人なら……あなたは今、何を」
「死者の声を届ける仕事をしています。先生たちが植えつけた能力を使って」
蔵本の顔が歪んだ。冴はそれ以上何も言わず、部屋を出た。
◇
キャンパスの中庭を歩きながら、凛が冴の腕を掴んだ。
「お姉ちゃん」
冴は足を止めた。
「被験者って、お姉ちゃんのことでしょう?」
凛の目は真っ赤だった。涙の痕が頬に残っている。
「五歳の女の子。記憶処理をして社会に戻された方。それがお姉ちゃんだよね。お姉ちゃんの能力って、実験で」
冴は凛を見た。妹の目には、怒りと悲しみと、それでも姉を真っ直ぐに見つめる強さがあった。
「ああ。そうだ」
凛の手が冴の腕を強く握った。桜の蕾が頭上で風に揺れていた。




