教授の眼差し
廊下の蛍光灯が黒田の白髪を照らしていた。
「場所を変えよう。私の研究室で話しましょう」
冴は黒田の背中について歩いた。脚が重い。三日間の引きこもりで身体が鈍っている。黒田の研究室は冴の部屋より二回り大きく、窓からの光が明るかった。解剖学の図譜が壁に掛かっている。
黒田がコーヒーを淹れた。インスタントだが、砂糖を多めに入れてくれた。
「座りなさい」
冴はソファに腰を下ろした。コーヒーの湯気が顔を温める。
「能力のこと、と仰いましたが」
「ごまかさなくていい。私は三十年以上法医学をやってきた。検屍の現場で、理屈では説明できない正確さで死因を突き止める人間を何人か見てきた。大抵は経験と直感の産物だ。だが君の場合は違った」
黒田はデスクに腰掛けた。
「君が遺体に触れた後、報告書に書く内容が尋常じゃない。被害者の最期の行動を、まるで目撃したかのように再構成する。最初は天才かと思った。だがやがて別の可能性を考え始めた」
「いつからですか」
「三年前だ。園部真司の検屍のとき。君が報告書に『被害者は河川ではなく、閉鎖水域で溺死した可能性がある』と書いた。鑑定結果だけでは導けない結論だった。結果的に正しかったが、論理的な根拠が乏しかった。あのとき確信した」
冴はコーヒーカップを見つめた。自分の秘密が、思ったよりも薄い壁で守られていたことを知った。
「なぜ今まで黙っていたんですか」
「聞いたところでどうする。君が何らかの特殊な能力を持っていようが、法医学者としての仕事が優れていることに変わりはない。能力の出自を追及しても、法医学教室にとって得るものはない」
冴は黒田を見た。黒田の目は穏やかだった。批判でも好奇心でもない。ただ事実を受け止めている目だった。
「教授。私の能力は天賦のものではありません。幼少期に受けた実験の結果です」
「そうか」
「驚かないんですか」
「驚いている。だが、それで何が変わる。君が何者であろうと、この教室の法医学者であることに変わりはない」
冴の胸の奥で、凍りついていた何かに罅が入った。目頭が熱くなる。歯を噛みしめた。ここで泣くわけにはいかない。
「教授」
「うん」
「ありがとうございます」
黒田は軽く頷いた。
「ただし、条件がある。三日も研究室に閉じこもるのは禁止だ。私の教室の法医学者は、最低限の自己管理ができる人間でなければ困る」
冴は僅かに笑った。三日ぶりに表情筋が動いた気がした。
◇
黒田の研究室を出ると、少しだけ身体が軽くなっていた。
完全に立ち直ったわけではない。御堂の告白は今も冴の中で重く横たわっている。だが黒田の言葉が、崩れかけた地面に一本の杭を打ち込んでくれた。
研究室に戻り、携帯を確認した。薫からの追加メッセージ。安西からの業務連絡。嶋田からの短い「元気か」。
そして凛からの留守電。
「お姉ちゃん、猫の夜ちゃんは元気だよ。ちゃんとご飯あげてるから心配しないで。あとね、蔵本夕子先生のこと、ちょっと調べちゃった。都内の大学の教授で、認知心理学が専門。大学のウェブサイトにプロフィールが載ってた。それで、その先生のところに話を聞きに行こうと思うんだけど、お姉ちゃんも一緒に行かない? もう約束取り付けちゃった。来週の水曜日の午後。ごめんね、勝手に動いて。でも、お姉ちゃんが一人で全部やろうとするから」
冴は携帯を耳から離した。
凛がもう約束を取り付けていた。
蔵本夕子。鏡花計画の技術顧問。御堂と神崎以外にプロジェクトの内部を知る人物。凛が独自のルートでたどり着き、アポイントまで取ってしまった。
止めるべきだろうか。凛をこの件に巻き込むリスク。だが蔵本への接触は必要だ。御堂が語らないなら、別の証言者が要る。そして凛の「一般人」としての立場は、むしろ蔵本の警戒を解くのに有効かもしれない。
冴は凛に電話をかけた。
「凛。水曜日、一緒に行く」
「本当? やった」
「ただし、私の指示に従うこと。危険を感じたらすぐに離れること」
「分かった。お姉ちゃん、大丈夫? 声が少し元気になった気がする」
「ああ。少しだけ」
通話を切った。冴は窓の外を見た。夕暮れの空がオレンジ色に染まっている。
壊れかけた。だがまだ壊れていない。黒田の言葉と凛の行動力が、冴を踏みとどまらせた。
次は蔵本夕子。鏡花計画のもう一人の内部者。御堂が語れないことを、この人物が語るかもしれない。
冴はノートを開き、蔵本への質問リストを作り始めた。




