砕けたアイデンティティ
研究室の鍵を閉めた。
ブラインドを下ろし、蛍光灯を消し、デスクランプも消した。暗闇の中で、冴は椅子に座ったまま動かなかった。
御堂の告白が頭の中で反響している。
五歳のとき、白い部屋に入れられた。動物の脳組織に触れさせられた。三ヶ月後に能力が発現した。記憶処理を施されて、母親のもとに返された。
才能ではなかった。
天賦の異能でも、運命の贈り物でもなかった。国家プロジェクトの実験台にされた結果だ。政府の予算で、幼い子供の脳を改変して、死者の記憶を読み取る道具を作ろうとした。それが「記憶を食べる」能力の正体だった。
冴は自分の手を見た。暗がりの中で、手の輪郭がぼんやりと浮かんでいる。この手で何百もの遺体に触れてきた。記憶を食べてきた。法医学者としての武器だと思っていた。苦しみながらも、誇りに似たものを持っていた。
全て嘘だった。
いや。嘘ではない。能力は本物だ。食べた記憶も本物だ。だがその起源が、冴自身の選択ではなかった。五歳の子供に選択肢はない。御堂の言葉がそのまま返ってくる。
暗闇の中で、冴は膝を抱えた。
鈴音のことを考えた。同じ白い部屋で、隣のベッドで「こわいね」と囁いた少女。あの子は冴よりも強い能力を持ち、制御できず、壊れていった。そして神崎の道具にされた。
同じ実験を受けた。同じ傷を負った。だが冴は記憶を消されて日常に戻り、鈴音は暗闇に残された。
なぜ自分だけが。
ドアをノックする音がした。
「朽木先生。嶋田です」
冴は答えなかった。
「先生。中にいるのは分かっている。鍵が閉まってるんでドア越しで失礼するが」
「帰ってくれ」
「断る」
嶋田の声は低く、穏やかだった。
「御堂先生の話を聞いて、辛いのは分かる。だが一人で閉じこもっても何も変わらない」
「何も変わらないのは分かっている。だから一人にしてくれ」
「先生」
嶋田の声が変わった。静かな敬語。核心を突くときの嶋田の声だった。
「先生の能力がどこから来たかは関係ない。先生がその能力で何をしてきたかが全てだ。七年間、俺はそれを見てきた」
冴は膝に顔を埋めたまま、動かなかった。
「先生が食べた記憶のおかげで、遺族が真実を知れた事件がいくつもある。それは実験のせいじゃない。先生がそう決めたからだ」
沈黙。
「俺は帰る。だが、明日には連絡をくれ。約束だ」
足音が遠ざかった。
冴は暗闇の中で、嶋田の言葉を反芻した。何をしてきたかが全て。そう思えれば楽だろう。だが今の冴にはその言葉を受け止める余裕がなかった。
◇
翌日も、その次の日も、冴は研究室から出なかった。
コンビニの弁当で食いつなぎ、ソファで仮眠を取った。夜の甲高い鳴き声の留守電が携帯に入っていた。餌を催促しているのだろう。凛が猫の世話を代わりにしてくれているらしい。
三日目の午後。薫から電話が入った。出なかった。メッセージが残された。
「冴。御堂先生のことは嶋田さんから聞いた。辛いと思う。でも、事件は待ってくれない。園部の肺水分析から新しい発見があった。連絡ちょうだい」
冴は携帯を伏せた。
薫の論文リスト。冴は思い出した。薫が独自に御堂の過去を調べていると言っていた。あの件の結果はまだ聞いていない。
携帯を手に取り、薫に一言だけ返信した。
「御堂の論文リストの件、何が分かった」
数分後、薫から返信が来た。
「御堂先生の業績リストを辿ったの。二十五年前まで、神経組織の残留電位パターンに関する論文を精力的に発表していた。年に三本から五本。ところが二十年前を境に、この分野の論文が完全にゼロになる。突然の撤退。代わりに倫理学関連の論文が増える」
プロジェクト中止と同時期だ。御堂は研究テーマを捨てた。罪悪感に駆られて。
「もう一つ。撤退直前の最後の論文に、共著者として『K.K』というイニシャルが載っている。他の論文にはこの共著者はいない。鏡花計画関連の人物かもしれない」
K.K。冴は考えた。神崎怜司のイニシャルとは一致しない。蔵本夕子でもない。
冴はソファから立ち上がった。三日ぶりに蛍光灯をつけた。白い光が目を刺す。
鏡の中の自分の顔は、目の下にくまがあり、唇が乾いている。
まだ壊れていない。壊れる余裕がない。
冴は白衣を羽織り、研究室のドアを開けた。廊下の向こうに、黒田教授が立っていた。
「朽木くん。三日も研究室に閉じこもっていたそうだね」
「申し訳ありません。体調を崩しまして」
「嘘だろう」
黒田の目は冴を見据えていた。厳しい、だが冷たくはない視線。
「朽木くん。君の能力のことは、前から気づいていた」
冴の呼吸が止まった。




