恩師の影――御堂孝之の沈黙
御堂の家は世田谷の住宅街の奥にあった。
築四十年の木造二階建て。垣根の山茶花がまだ咲き残っている。冴は門扉の前で立ち止まった。昨夜の記憶の残響がまだ頭蓋の内側にこびりついている。水野の目を通して見た御堂の顔。「帰りなさい」と言ったあの声。
インターホンを押した。
「冴くんか。上がりなさい」
御堂の声は穏やかだった。いつもと変わらない。
玄関で靴を脱ぎ、書斎に通された。本棚が壁の三面を埋め尽くしている。法医学、神経科学、倫理学。窓からの光が埃の粒子を照らしていた。御堂が緑茶を淹れてくれた。湯呑の熱さが掌に沁みる。
「先生」
「うん」
「水野遥を知らないと仰いましたね」
御堂の手が一瞬止まった。茶托に湯呑を置く動作が、僅かにぎこちなくなった。
「そう言ったかな」
「言いました。電話で。三秒の沈黙の後に『聞いたことがない』と」
御堂は冴を見た。穏やかな目の奥に、何かが揺れている。
「水野遥の記憶を食べ直しました。深層まで」
御堂の肩が強張った。
「死の数時間前、水野はある研究室で人物と面会していました。白髪交じりの穏やかな顔。その人物は水野に『帰りなさい。もう調べないでください。あなたの命のために』と言った」
沈黙が落ちた。壁時計の秒針が刻む音だけが聞こえる。
「先生。水野は先生に会いに来ていた。鏡花プロジェクトのことを聞きに」
御堂は目を閉じた。皺の刻まれた顔に、深い影が差す。
「……ああ。会った」
声が掠れていた。
「来たんだよ、あの人は。鏡花プロジェクトについて調べているジャーナリストだと名乗って。私は何も話さなかった。話すわけにはいかなかった。帰しただけだ」
「先生が会った三日後に、水野は殺されました」
御堂の顔から血の気が引いた。
「私のせいだと言いたいのか」
「そうは言っていません。ただ、先生が嘘をついた理由を知りたい」
御堂は長い沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。
「冴くん。私が話せば、君がさらに危険な場所に踏み込むことになる。私は君を守りたいんだ。二十五年前から、ずっと」
「守る。先生のその言葉を、もう信じられない」
御堂が目を見開いた。冴の声には抑えた怒りが滲んでいた。
「先生は二十五年前、幼い私を実験台にした。同意書には母の署名があった。研究責任者は先生です。その先生が今になって『守りたい』と言う。何から守ろうとしているんですか。真実からですか」
御堂の目に涙が光った。
「……今は危険だ。深入りするな。頼むから」
「なぜ危険なのか、具体的に教えてください」
「それは――」
「先生」
冴は声を低くした。
「水野遥の記憶の中で、犯人は『ごめんなさい』と言いました。殺す相手に謝りながら毒を盛った。その女性は、先生も知っているはずだ。もう一人の被験者です」
御堂の顔が歪んだ。苦しげに、あるいは罪に押しつぶされるように。
「神崎という男には気をつけなさい」
初めて御堂の口から神崎の名が出た。声は震えていたが、その一言だけは明瞭だった。
「神崎が何を」
「今は言えない。だが、あの男に近づくな。君が持っている情報の量を、あの男は正確に把握している」
それ以上は何を聞いても「話してはならない」の一点張りだった。冴は立ち上がった。
「先生。次に会うときには全てを話してもらいます」
玄関で靴を履き、振り返らずに門を出た。山茶花の白い花弁が地面に散っていた。
◇
御堂の家を離れて十分後、冴のスマートフォンが震えた。凛からだった。
「お姉ちゃん、今電話大丈夫?」
「ああ」
「あのね、『鏡花』って言葉、ちょっと調べてみたの」
冴の足が止まった。
「凛。なぜそれを」
「だって気になったんだもん。お姉ちゃんの研究室でホワイトボードに書いてあったの、ちらっと見えたから」
冴は唇を噛んだ。凛をこの件に巻き込みたくなかった。
「それで、何が分かったの」
「ネットで検索しても全然出てこなかったんだけど、ウェブアーカイブっていうサービスで古いページのキャッシュを漁ったら、削除された政府系サイトのキャッシュが見つかったの。『先端認知科学研究助成プログラム』っていう名前で、その中に『鏡花計画』って単語があった」
「詳しく教えて」
「ページ自体はほとんど削除されてるんだけど、キャッシュに断片が残ってた。『残留認知印象の計測と応用に関する基礎研究』って書いてあった。あと予算年度が二十五年前で、主管部署が内閣府になってる。それ以上は消されてて読めなかった」
冴は息を吐いた。安西が政府アーカイブから発掘した情報と一致する。凛が独自にたどり着いたということは、この情報は完全には消し切れていないということだ。
「凛。ありがとう。でも、これ以上は調べないで」
「なんで?」
「危ないから」
「お姉ちゃんがそう言うってことは、やっぱり何かあるんだね」
冴は答えなかった。電話の向こうで凛が黙った。
「……分かった。でも、何かあったら絶対に教えてね」
「ああ」
通話を切った。冴は空を見上げた。鉛色の雲が低く垂れ込めている。
御堂は嘘をつき続けている。だが完全な嘘ではない。冴を守ろうとする意志と、語れない秘密との間で引き裂かれている。そして凛が鏡花の情報を掘り始めた。妹の行動力は頼もしくもあり、恐ろしくもあった。
冴は歩き出した。次は第五の事件の物的証拠を積み上げる。水野の取材経路を辿り、東栄製薬との接点を洗い出す。
背後で、誰かの足音が一瞬聞こえた気がした。振り返ったが、住宅街の道は空だった。山茶花の花弁だけが風に舞っていた。




