二度目の食事――記憶の深層へ
保管庫の冷気が指先を包んだ。
水野遥の組織標本。ホルマリン固定されたパラフィン包埋ブロック。ラベルには検体番号と日付が几帳面な字で記されている。三年前、冴がこの標本から一度目の記憶を食べた。あのときは表層だけだった。死の直前、三十分間の薄れゆく意識。今回はもっと深く潜る。
冴はゴム手袋を外した。素手でなければ記憶は読めない。
深夜の法医学教室。蛍光灯を消し、デスクランプの光だけにした。白衣を脱ぎ、腕まくりをする。左手に標本を載せた。右手の指先が標本の表面に触れる。
冷たい。
それから、冷たさが消えた。
◇
光が変わった。
蛍光灯の白い光。見覚えのある天井。いや、これは冴の知っている天井ではない。水野遥の目が見た天井だ。
記憶が流れ込んでくる。
水野の最期の三十分。身体が痺れている。舌の奥に金属質の苦味が残っている。コーヒーに何かを入れられた。リビングのソファに横たわったまま、天井を見上げている。視界の端で人影が動く。
ここまでは三年前と同じだ。
冴は意識を集中した。表層の記憶を通り過ぎ、より深い層へ。水野の感覚が冴の身体を浸食する。指先の痺れ。呼吸が浅くなる感覚。心臓の鼓動が遠くなっていく。
そして――記憶の画角が変わった。
三十分より前の記憶。通常はアクセスできない深層。だが水野の死の記憶は強烈な感情に彩られていて、その感情が時間の壁を薄くしている。
水野は死の数時間前、誰かと会っていた。
研究室。白い壁。薬品棚。冴は息を呑んだ。この場所を知っている。フラッシュバックで何度も見た光景に似ている。だが微妙に違う。ここは冴の幼少期の「白い部屋」ではない。もっと古い、使い込まれた研究室だ。
水野の視線が相手に向く。デスクの向こう側に座る人物。白髪交じりの穏やかな顔。
冴の心臓が跳ねた。
御堂孝之だった。
水野の記憶の中で、御堂が口を開く。声は水野の聴覚を通して歪んでいるが、聞き取れる。
「……あなたが調べていることは、非常に危険なことです」
「教えてください。鏡花プロジェクトのことを」
水野の声だ。録音機を隠し持っている緊張感が、水野の身体を通して冴に伝わる。
「私は答えられない。ただ一つだけ。あなたが追っているものは、あなたの想像よりもはるかに深い闇に根を張っている」
「被験者のことはご存知ですね。子供が使われた」
御堂の表情が凍った。一瞬。だがすぐに穏やかな仮面が戻る。
「帰りなさい。そして、もう調べないでください。あなたの命のために」
記憶が揺らいだ。場面が切り替わる。水野のリビング。コーヒーカップ。向かいに座る人物の顔は影に沈んで見えない。フードを被っている。
「あなたは御堂先生に会った」
女性の声。静かだが、どこか壊れた響きがある。
「あの人は何も教えてくれなかった。でもあなたは、もう十分知りすぎている」
コーヒーの湯気。甘い香水の匂いが水野の鼻腔を満たす。ジャスミンとバニラ。
「ごめんなさい」
フードの女性がそう言った。水野の意識が遠のいていく。毒が回り始めている。
記憶が急速に暗転する。
◇
冴は椅子から転げ落ちた。
床の冷たさが背中に当たる。鼻血が流れている。こめかみが脈打つように痛い。天井が回転している。ここは法医学教室の研究室。自分の場所。
呼吸を整えた。
御堂。御堂が水野に会っていた。「聞いたことがない」と言ったのは嘘だった。
そして犯人の女性。水野を殺す前に「ごめんなさい」と言った。殺しながら弔う。罪悪感を抱えたまま人を殺し続けている。
冴は床に座ったまま目を閉じた。
すると、水野の記憶ではない光景が浮かんだ。白い部屋。幼い自分がベッドに横たわっている。隣のベッドに、同じくらいの年齢の少女。その少女が冴の手を握っている。
「こわいね」
少女の声が耳の奥で響いた。冴自身の、封じられた記憶の破片だった。
鈴音。
冴は鼻血を拭い、立ち上がった。膝が震えている。デスクランプの光の中で、標本が無言のまま横たわっていた。
警告通りだ。見たくないものが映っていた。信じていた恩師の嘘。そして、自分の中に眠る幼い日の記憶。
冴はスマートフォンを取り出した。午前三時十七分。
御堂に電話をかけようとして、やめた。今この感情のままぶつけても、また「話せない」と逃げられるだけだ。
代わりに安西にメッセージを送った。
「水野の記憶から新情報。御堂は水野と面会していた。嘘をついていた。詳細は明日」
送信ボタンを押す指が、まだ震えていた。




