第五の棺――毒と沈黙
研究室を出たのは午前二時を回ってからだった。
廊下の非常灯が青白い光を落としている。冴は足音を殺して階段を下りた。犯人が研究室のネットワークに侵入した以上、この建物のセキュリティは信用できない。背中に張りつく視線の気配を振り払いながら、裏口から夜気の中へ出た。
三月の風が頬を刺す。
帰宅した冴は、夜に餌をやり、自分はコーヒーだけで済ませた。ノートパソコンを開き、水野遥の記憶を整理する。三年前に食べた水野の最期。毒が回る身体の痺れ。視界がぼやける中で見えた研究室の蛍光灯。甘い香水の残り香。
水野遥。フリージャーナリスト。三十四歳で死亡。死因は急性薬物中毒。自宅で倒れているところを発見された。自殺として処理されたが、冴は記憶を食べて知っていた。水野は自分の意思で薬を飲んではいない。
スマートフォンが震えた。安西からの暗号化メッセージだった。
「水野遥のノートPC、証拠保管庫から借り出しました。暗号化されたファイルが複数。復号に時間がかかります」
冴は返信を打った。
「核心部分は『能力者プロジェクト』の取材メモのはず。優先して解読してほしい」
送信した直後、別のメッセージが届いた。嶋田からだった。
「水野の元編集者に接触した。明日の午後、会ってくれるそうだ。場所は新宿の喫茶店。俺は行けないが、詳細を送る」
左遷が決まった嶋田は、公式には捜査から外れている。それでも動き続けている。冴は短く礼を返した。
◇
翌日の午後。新宿三丁目の地下にある喫茶店は、薄暗い照明と煙草の匂いが染みついた古い店だった。
カウンターの奥に、五十代半ばの男が座っていた。水野遥の元担当編集者、戸川修一。灰色のジャケットの肘が擦り切れている。コーヒーカップを両手で包むように持ち、冴を見た。
「朽木さん、でしたっけ。嶋田さんから聞いてます」
「法医学者の朽木です。水野さんの件でお話を伺いたい」
戸川は目を伏せた。
「遥は優秀なジャーナリストでした。特に調査報道の嗅覚が鋭かった。最後の取材テーマは政府系の研究プロジェクトに関するものでした」
「具体的にはどのような」
「詳しくは聞いていません。遥は取材内容を最後まで明かさない主義でした。ただ、一度だけ漏らしたことがある。『子供を使った実験があった。しかも被験者はまだ生きている』と」
冴の指先が冷たくなった。
「それはいつ頃の話ですか」
「亡くなる二週間ほど前です。普段は取材の話を一切しない人間がそんなことを言った。相当な衝撃を受けたんでしょう」
「水野さんの様子に変化は」
戸川はコーヒーカップを置いた。
「最後の一週間は、明らかにおかしかった。何度もスマートフォンを確認して、周囲を気にしていた。編集部への出入りの時間を毎回変えていた。尾行を警戒するように」
「脅迫を受けていた可能性は」
「そうだと思います。ただ遥は警察に行くことを拒否しました。『警察の中にも関係者がいる』と」
冴は息を止めた。水野は神崎の存在に気づいていたのか。
「もう一つ。遥が最後に会った人物を知っていますか」
戸川は首を横に振った。
「知りません。ただ、亡くなる三日前にメールが来ました。『もし私に何かあったら、このアドレスにパスワードを送ってほしい』と。暗号化ファイルのパスワードだと思います」
「そのパスワードは」
「送りました。嶋田さん経由で、安西さんという方に」
冴は頷いた。安西がすでに復号作業に入っている。水野の遺志は、巡り巡って冴の手に届こうとしている。
◇
喫茶店を出ると、空は鉛色だった。
冴は足を法医学教室に向けた。水野の組織標本は保管されているはずだ。三年前に一度食べた記憶を、もう一度食べ直す。深い層にアクセスすれば、新しい情報が得られる可能性がある。
研究室に戻り、保管庫のリストを確認した。水野遥の検体番号を探す。指がリストの上を滑り、止まった。
検体は存在する。
冴は保管庫の鍵を取り出した。手が僅かに震えている。美咲の標本、園部のコンクリート片、柏木の血液。これまで三度、記憶を食べ直してきた。そのたびに鼻血が出て、頭痛が数日続いた。身体への負荷は確実に蓄積している。
それでも食べなければならない。
保管庫を開けようとしたとき、デスクのパソコンが通知音を鳴らした。
匿名のメッセージ。
「水野遥の記憶には、あなたが見たくないものが映っている」
冴は画面を見つめた。犯人からだ。前回と同じく、冴の研究室のネットワークを経由している。
背筋が粟立つ。
見たくないもの。犯人は冴が記憶を食べ直すことを予測し、警告している。あるいは挑発しているのか。
冴は保管庫の扉に手をかけた。
「見たくないものでも、見なければならない」
独り言が、静まり返った研究室に落ちた。




