名前のない影
四人が一つの部屋に集まったのは、初めてだった。
冴の研究室。深夜。蛍光灯を消し、デスクランプだけを灯した。冴、嶋田、安西、薫。四つの椅子が円を作るように置かれている。窓のブラインドは閉じてある。
「これまでの調査結果を統合します」
冴がホワイトボードの前に立った。薫と二人で作った図を拡大コピーし、貼り付けてある。
「鏡花プロジェクト。約二十五年前に内閣府の予算で運営された極秘の研究プロジェクト。目的は、死者の残留記憶を科学的に抽出する技術の開発。研究責任者は御堂孝之。監督官は神崎怜司。被験者として二人の子供が選ばれた」
冴は一拍置いた。
「被験者01。私です。被験者02は、鈴音という名前の女の子。私と同年代。プロジェクト中止後、私は記憶を消されて社会復帰した。鈴音は『特命対策室預かり』となり、行方が分からない」
嶋田が腕を組んだ。安西がノートにペンを走らせている。薫は冴の目を見つめていた。
「七つの未解決事件。被害者全員が鏡花プロジェクトの存在に何らかの形で触れた人物。藤原美咲は東栄製薬のインターンとして内部文書に触れた。園部真司は研究員として被験者データを持ち出そうとした。関口義人は元刑事として独自に調査した。全員が、プロジェクトの秘密を知ったために殺された」
「犯人は」
嶋田が低い声で促した。
「犯人は一人の女性。三十代前半。身長百七十前後。細身。特注の香水『鏡花』を使用。冴を刺した人物と、七つの事件の犯人は同一人物。歩行パターン解析で95パーセント一致」
安西が補足した。
「カスタムブレンドの香水。ジャスミン、バニラ、ムスク、アルデヒドの一点物。調合師リストの追跡中です」
「そして、この女性は私と同じ能力を持つ可能性が高い。柏木に『死者の顔が見えるだろう』と囁き、園部の記憶の中では被害者に苦痛を最小限にする配慮を見せている。犯人は殺しながら弔っている」
部屋が静まった。デスクランプの光が四人の顔に影を作っている。
「犯人のプロファイルを総合すると」
冴は声を落とした。
「鏡花プロジェクトのもう一人の被験者、鈴音。プロジェクト終了後に神崎の管理下に置かれ、十五年以上にわたって神崎の指示で口封じの実行者として使われてきた。殺人の間隔が素数月なのは、能力の暴走による精神状態の周期と関連している可能性がある」
「使われてきた」
薫が呟いた。
「そう。犯人は加害者であると同時に被害者だ。神崎に使われた道具」
沈黙が落ちた。安西のペンが止まっている。嶋田の拳が白くなっていた。
「問題は」
嶋田が声を絞り出した。
「全ての記録から犯人の名前が抹消されていることだ。鈴音という名前すら、関口の手帳と冴の母親の手帳にしか残っていない。政府のデータベースからは消されている。安西が確認済みだ」
「戸籍も住民票も存在しない人物です」
安西が頷いた。
「名前のない影。それが犯人の正体だ」
冴はホワイトボードの犯人の欄を見た。名前の代わりに「?」と書かれている。すべての事件を繋ぐ線の中心にいるのに、名前がない。存在を消された人間。
「ここからどうする」
嶋田が冴を見た。
「第五の事件に進みます。水野遥の毒殺。関口のリストによれば、水野は鏡花プロジェクトの取材を進めていたジャーナリスト。水野の記憶を食べ直せば、犯人の新しい情報が得られる可能性がある」
「朽木先生。調合師リストの追跡結果が近日中に出ます。注文者の名前が分かれば、犯人の身元に繋がります」
安西が言った。冴は頷いた。
薫が立ち上がった。ホワイトボードに近づき、犯人の欄の「?」に手を伸ばした。
「この人は、助けを求めている。冴にだけ読み取れる方法で」
「ああ」
「だったら、この人を見つけるのは犯人を捕まえるためじゃない。助けるためだよ」
冴は薫の言葉を受け止めた。助ける。法医学者は死者のために働く。だが今回は、生きている犯人を助けなければならない。
四人の会議が終わった。安西が帰り、嶋田が去り、薫が最後に残った。
「今日は帰れる?」
「ああ」
「嘘」
「研究室で寝る」
「知ってた」
薫が微かに笑った。ドアの前で振り返った。
「冴。一人で抱え込まないで」
ドアが閉まった。冴は一人になった。
ホワイトボードの前に立つ。七つの事件。七人の死者。一人の犯人。そして犯人からの直接のメッセージが来ることを、冴は予感していた。
予感は正しかった。
スマートフォンが震えた。非通知ではない。番号付き。だが発信元を確認して、冴の血が凍った。
発信元は冴自身の研究室のIPアドレスだった。
メッセージを開いた。
「やっと気づいたのね。次は第五の事件。水野遥。あの人の記憶には、あなたが知るべき真実がある。――名前のない影より」
冴は研究室を見回した。誰もいない。だがメッセージは冴の研究室のネットワークから送信されている。犯人は今、この建物のどこかにいるのか。それとも、遠隔からネットワークに侵入したのか。
冴はデスクランプを消した。暗闇の中で、スマートフォンの画面だけが光っている。犯人の文字が、冴の顔を青白く照らしていた。
名前のない影が、冴のすぐそばまで来ている。




