糸の収束
桐生薫の研究室に、冴は夜明け前に着いた。
電話で伝えた。標的リストに薫の名前がある。関口が四年前に予測していた。薫は三秒だけ沈黙し、「来て」と言った。
ドアを開けると、薫がコーヒーを二杯分淹れていた。白衣ではなくカーディガンを着ている。髪を下ろしていた。研究者ではなく、一人の女性の姿だった。
「座って」
冴は座った。薫が向かいに座る。デスクの上に、薫がまとめた園部の再鑑定報告書と、安西から転送された関口のリストのプリントアウトが並べてあった。
「怖くないのか」
冴が聞いた。
「怖いよ。でも、今更逃げても仕方ない。園部の再鑑定をした時点で、私はもう踏み込んでいる」
「引き返せる。まだ間に合う」
「冴。あなたは私に引き返してほしいの? それとも一緒に戦ってほしいの?」
冴は言葉に詰まった。本音を言えば、薫を巻き込みたくない。だが薫の力が必要だ。法医学的な証拠を法廷に出せるのは、法医学者だけだ。
「正直に言う。怖い。薫を失うのが」
薫の目が僅かに見開かれた。冴がこんな言葉を口にするのは、三年間で初めてだった。三年前に別れたときも、冴は何も言わなかった。隠し事を続け、壁を作り、薫が去るのを黙って見ていた。
「冴。一つ聞いていい」
「何だ」
「あなたの能力。死者の記憶を食べるということ。本当なの」
冴の呼吸が止まった。薫が直接的に問いかけてきた。これまで薫は「法医学だけでは説明できない何か」と遠回しに言っていた。だが今は直球だった。
冴は窓の外を見た。東の空が薄く白み始めている。嘘をつくことはできた。だがもう嘘をつく理由がなかった。
「本当だ」
「どういう」
「遺体に素手で触れると、死者の最期の記憶が映像として再生される。約三十分間の記憶。死者の主観で見た映像だから、不完全で歪みがある。だが匂い、音、感触、感情まで流れ込んでくる」
薫は黙って聞いていた。冴の言葉を一つずつ、法医学者の頭で検証しているのが分かった。
「三年前。私が隠していたのはこれだ。この能力があるから、通常の法医学的手法では得られない情報を持っていた。だが誰にも説明できなかった」
「御堂先生には」
「御堂先生だけに打ち明けていた。だが御堂先生は、私の能力を最初から知っていた。作ったのが御堂先生だから」
薫の目が鋭くなった。科学者の目。
「残留記憶感応性試験。母の遺品から同意書が出てきた。御堂先生が研究責任者で、幼い私が被験者だった。能力は天性のものではなく、実験で植え付けられたものだ」
「それを科学的に証明できる?」
「今のところ、できない。だが鏡花プロジェクトの内部資料が揃えば、実験の詳細が分かるはずだ」
薫はコーヒーを一口飲んだ。それからデスクの引き出しからノートを出し、白紙のページを開いた。万年筆を取った。
「整理しよう。七つの事件。関係者。証拠。全部を一枚の図にする」
冴は頷いた。薫が描き始めた。中心に「鏡花プロジェクト」。そこから七つの線が伸びる。各線の先に被害者の名前。被害者と被害者の間に、関係性を示す矢印。東栄製薬。神崎。御堂。二人の被験者。
二人で一時間かけて図を完成させた。窓の外はすっかり明るくなっていた。朝日がノートのページを照らしている。
全ての被害者を結ぶ一本の線が浮かび上がっていた。
鏡花プロジェクトの存在に触れた者が殺されている。研究員、ジャーナリスト、元刑事、元社員。全員が何らかの形でプロジェクトの秘密に近づいた。そして犯人は一人。
「犯人のプロファイル」
薫がノートに書き加えた。
「三十代前半の女性。特注の香水『鏡花』を使用。冴と同じ能力を持つ可能性が高い。鏡花プロジェクトのもう一人の被験者。名前は不明。すべての記録から名前が抹消されている」
「殺害方法に一貫した特徴がある」
「苦痛を最小限にする配慮。美咲は首を絞められた後に車に撥ねられた。園部は鎮静剤で眠らされてから溺死。関口は致命傷を避ける刺し方。犯人は殺しながら、被害者を弔っている」
冴は図を見つめた。全ての線が一つの結論に収束していた。
「犯人は自発的に殺しているのではない。誰かに使われている」
「神崎」
「神崎が犯人を管理し、口封じに使っている。犯人自身も被害者だ」
薫が万年筆を置いた。朝日が二人の間に差し込んでいた。
「冴。この図を見て思うことがある」
「何だ」
「犯人は、あなたに見つけてもらいたがっている。香水を残し、SMSを送り、記憶に痕跡を刻んでいる。すべてはあなたに向けたメッセージ」
「ああ。犯人は私を殺す気はなかった。私に真実を追わせたかった」
「なぜ」
「分からない。だが一つだけ確かなことがある」
冴は薫の目を見た。
「犯人は、助けを求めている」
朝日が強くなった。ノートの上の図が光に照らされ、七つの事件を結ぶ線がくっきりと浮かんだ。
全ての線の始点は鏡花プロジェクト。終点は、まだ見えない。




